| 南アルプス「仙丈岳」に魅入られて(平成9年度) | |||
| 長野県弁護士会 鷲見 皓平 | |||
T 伊那というところ 朝日は、伊那の東、南アルプス仙丈岳を越えてやってくる。その光は、先ず、伊那谷西方に聳える中央アルプスを照らす。御存じのとおり、両アルプスとも3000メートル級の山脈である。明るい緑の帯は、見る見るうちに西山を駆け下り、やがて河岸段丘の下にまで達し、天竜の漣を鱗のように輝かせる。 そして、夕日は、仙丈岳を見事な薄紅色に染めてその勇姿を際立たせた後おもむろに中央アルプスに沈んでいく。こうして伊那の谷は、いつものとおり闇の中へと誘われてゆく。 伊那谷の毎日の姿である。 伊那市は、”長野県のへそとも言うべき諏訪湖”から流れ出る天竜川の下流約40km位の場所に位置する。昔は、諏訪・岡谷ともども養蚕が盛んであった。伊那節でもこう歌われている。「ハアー、桑の中か〜ら小唄が洩れるヨサコイアバヨ」と。今は、精密と弱電の製造業が盛んである。伊那谷は、実は谷と称されているものの、県歌「信濃国」では、4つの平(松本・伊那・佐久・善光寺)の1つに数えられている。意外と広い。現に日本でも有数の酪農飼料の生産地なのだが、それはあまり知られていない。 とはいえ、長野県は各山脈で画された細長い地形であるため、各地域毎に文化も相当に異なっている。鉄道も、長野市は上野駅からの信越線だが、伊那は新宿駅から中央線に乗って岡谷で乗換え、飯田線で天竜川沿いを南下する。従って県南部は、関東より名古屋中京圏の文化の色合いが濃い。斯くして、伊那では、さすが名古屋のミャーミャー弁は使われないものの、「そうズラー」の静岡同様のズラズラ弁なのである。このズラ弁は県中部以北の松本・長野ではもはや全く使われない。 そんな具合であるから、伊那から本庁のある長野までは、200キロ近く、高速を使っても2時間半の道程となる。東京に出るのとさ程変わらない。 本庁は遠いのだ。自ずと会務からも遠ざかる。1時間の会議のため1日を漬すのは、やはり辛いのです。 U 伊那に戻るサケ? 私が郷里伊那に戻ってきたのは昭和57年のことである。「東京は人の住むところではない。せめて子供達には自然の中で伸び伸び育って欲しい。」という思いがあった。 本当は、自然のある場所ならどこでも良かった。しかし地元の高校卒業まで見続けてきたアルプスの山々、特に南アルプス仙丈岳を忘れる事はできなかった。伊那には通信簿のない学校で有名な伊那小学校もある。戻る時の心境は、ふるさとの川に帰ってくるサケ。まるで本能に近い。伊那を出て、ほぼ15年余が経過して妻、そして子供3人を伴っての帰郷。 妻も東京の職場を辞めた。勝算なんぞなかった。「まあ、なんとかなるだろう。家族を食わせる事位できるだろう。」 それは、さ程悲壮な思いでの決断ではなかった。実は伊那に法律事務所は1つしかなった。需要は充分見込まれていた。しかも裁判修習中、私の企図を知った横田安弘裁判官(現在退官されている。)は、当時乙号支部であった伊那支部の事件数などを調べ、親切にそれを私に教えてくれた。ただ感謝感謝だった。 伊那に来るについては、もう1つの伏線があった。妻の気持である。彼女は九州福岡の出身である。ある種閉鎖的な村社会が温存する伊那に来て、本当に楽しく一緒に生活する事が可能なのだろうか。しかし、それについては全く心配していなかった。その根拠としては次のエピソードがある。(全く私的な事柄ではあるのだが、今、妻への感謝の気持を表すものとして、それを書く事をお赦し願いたい。) 土方、解体、トラック運転などでなんとか生活を凌いできた司法試験時代、勿論基本は妻の稼ぎにあった。背水の陣で臨んだ最後の試験発表の2〜3日前、私は妻にこう言った。 「これで駄目だったら試験はやめる。何処か過疎地に行って農業をする。いいだろうか。」 私としては結構本気だった。妻は私の本気を知ったうえ、いともた易くこう言った。 「いいわよ。でもね。そういう過疎地には、あなたの好きなど−ルの自動販売機なんかないのよ。」 参った−。 こうして、私は妻子を連れ、伊那に引越してきた。実家などはない。土地も無かった。我々はよそ者だ。 V 伊那の弁護士生活その後 15年以上も経って見た伊那は、私の子供の頃知っていた故郷とは違っていた。多くの素朴な心を持った住民はそう変わっては見えないのだが、どこか違っていた。 精密・弱電関係企業の一層の発展により、農業に従事していた多くの人々は、おかあちゃんも含め勤め人に変身していた。小規模ながらも消費生活もどんどん展開されていた。中央高速道路も今や全て開通している。 高速道に乗ってやくざもやってくる。その洗礼も受けた。離婚もふえてきた。どうも伊那には不倫の臭いも強い。伊那の支部長を勤めたある裁判官は要旨こう言った。 「伊那にはどうも美人も多いし、飲み屋も他に較べて多い気がする。女性にも仕事先はあるし、不倫もそのせいでしょうかね。」 バブルを経る中で、土地も増々値上りした。境界・遺産分割事件も多くなった。会社の破産管財人はもとより、和議なども手がけている。円高、円安は、直伊那の製造業を襲う。英語、LC、特許の文書も飛び交う。「あーもう少し英語位勉強しておくべきだった。」などと思うがもう手遅れだ。 クレサラ事件、自己破産も全国の例に洩れない。私も現在任意整理も含め常時20件前後の件数をこなしている。事件の性質上、弁護士の費用もつい分割ローン払いにせざるを得ないのが少々辛いところ。 要するに、伊那は田舎であるはずなのだが、事件内容は、日本全体のそれと余り異なっているとは思われない。もし他と異なっているとすれば、それは未だ結構大家族制が維持されており、長子相続的感覚が強いということであろうか。それを単に封建性の残影とのみ呼んで欲しくない。相互に扶け合わなければ生きて行かれない農耕民族の、良き日本の風習を同時に持ち合わせているからだ。 詳みに、私が伊那に来た十数年前と較べ、裁判官は1人から簡裁判事が来て2人となり、弁護士は6人にまで増えている。 国選は常時2〜3件といったところか。少年事件も時折扱う。警察との民暴対策協議会も、長野県の地域的特性から県レベルとは別に、独自に伊那地区民暴対策協議会を発足させ既に13年になる。 ワ号事件も年間約100件に近く、元甲号支部であった近くの支部とも、余り違わない状況となっている。組事務所の明渡しもある。外国人の事件もかなり多い。 以上のとおり、伊那には、ありとあらゆる事件と、相応な事件数が絶えず存在しているのだ。 W オジさん隊は行く 私の私生活は、このオジさん隊に負うところが多い。気のおけない仲間の集団だ。スキーの時などは、家族も含めたファミリーオジさん隊として、集団でどっと繰り出す。小型バスも共有している。夏は川遊び、キャンプ、秋の茸がり等、目的・行先・参加者は変幻自在なのである。時には山にも登る。 突如、カナダ、フランス、スイスへの“スキーオジさん隊”にまで変容する。勿論私もその一員として参加している。 但し、普段は、ただの呑んべえのオヤジの集団でもある。私のストレス解消には非常に役立っているのであるが、妻にとっては時に歓迎されない集団でもある。(私の体に気を遣ってくれての事なので、その点妻には大変申し訳ないと思う。)だから夏、秋の多少の野菜の収穫の外、畑の耕作は、「又来週」でいつも過ぎてしまう。まっ、いいか。 X おわりに こうして私は、時として白馬に跨りさっそうとやくざと対峙したり、赤ヒゲよろしくボランティア的弁護活動もしながら、遊びも忘れていない。優れて立派な田舎弁護士であると自負している。 丁度昨年秋、そんな自己の生活をエッセーとしてまとめ、本を出版したばかりでもある。本の名は、「パパガヤからの電話−雑魚の小出し話」。メインは、ブラジル日系U世の女性とオーバーステイのパキスタン人青年との、刑事、仮放免・在留特別許可と結婚、そして2人のその後を小説風に描いたもの。その他病気の事、日頃感じている事等々。 この稿では書けなかった、田舎弁護士の日常や私生活を、読み易くまとめたつもりです。御希望の先生におかれましては、是非御一読頂ければ幸甚この上なき限りです。
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