| 裁判官から弁護士へ(平成14年度) |
| 山梨県弁護士会 須藤 繁 |
T はじめに この「ひまわり」の発刊趣旨からすると,私が最近弁護士を開業した甲府地家裁都留支部管内の実情をまず報告すべきなのですが,この原稿を書いている時点ではまだ開業から実質的に3ヶ月位しか経っていませんので,十分な実情報告はできそうにありません。ただ,幸いなことに,長く同支部管内の富士吉田市で孤軍奮闘されてきた原弁護士が,この「ひまわり」の3号に「山梨で開業して」と題する良い報告をされていますので,管内事情については同書を参考にして頂ければと思います。そこで,私は,裁判官であった者が任期途中で弁護士過疎地とされていた地で開業したその転身の心情と経過をお伝えし,現職の裁判官や検察官の方々の参考に供したいと思います。 U 転身の原点 私は任期を5年残して裁判官を退職し,今回富士吉田市で弁護士を開業しました。その転身の源は,大学に入学したころまで逆上ります。というのは,大学に入学した途端,国会周辺のデモが毎日の授業という60年安保の嵐に巻き込まれ,政治と個人,組織と個人等の問題を否応なく考えさせられたからです。それだけに止まらず,大学4年で司法試験に合格すると,修習中から臨時司法制度調査会の答申を巡り裁判官の官僚性が問題とされました。司法研修所を卒業するころには,裁判官が次々と訴追されるという司法の危機の時代を迎え,ついには,宮本裁判官再任拒否にまで行き着き,次第に裁判所の雰囲気が変わり,次々と身を翻してその生き方を変えていく同僚先輩の姿に暗然とする日々が続きました。このような時代の荒波のなかでは裁判官の良心が問われます。私は,「弱いもの,小さなものへの思いやりの心」を「裁判官の良心」にして仕事を続けようと決心しました。しかし,そのような人達に対して裁判官が法壇の上から出来ることは個人的にも制度的にも限られています。事件は解決しても,落胆して帰っていく人の姿を見るたびに,裁判官としてどれだけ彼の役に立ったのだろうかという不完全燃焼の思いが強まってきました。そのような中で何時か事件の当事者に直接関わりたいという願いが生まれてきたのです。 V 弁護士過疎地への誘い 50歳を迎えるころになって,司法行政に関わらざるを得ないようになると,こと志とは違って官僚的体質が自分のなかにも芽生えてくるのに気がつきました。その悩みの時に「弁護士過疎の問題」を聞くようになったのです。その記事を読んだとき,私は,直観的に,この道ならば組織等の呪縛なしに当事者に直接関わるという年来の願いが実現できるかもしれないと思ったのです。しかし,当時育ち盛りの子供達もおり,すぐにはその願いを実行に移すことは出来ませんでしたが,願いを叶え易くするために以後家を持たないことにしました。ただ,その後,私は子供のいない叔母の面倒をみなければならなくなり,その叔母が茨城県内に住んでいることもあって,関東地方を遠く離れることができなくなりました。 W 富士吉田市へ 裁判官としての最後の任地となった千葉地家裁松戸支部には支部長として4年勤務しました。もともと私は裁判そのものは大好きですが,最近の司法行政を巡る裁判所の体質には問題を感じることが何度かありました。それに,最後の年にはこれ以上異動の話を断ることは出来ないと思いましたし,体力気力の衰えも自覚するようになりました。それで,60歳になる年を裁判官生活の最後にしようと決心したのです。妻に初めてその決心を打ち明けると,即座に賛成してくれました。そこで,秋のある1日,関東甲信地方で弁護士過疎地の1つとされていた甲府地家裁都留支部管内を見て回ることにしました。車で都留市内を見て回ってから登り坂が続く富士吉田市内に入った時,その坂の先に雪を頂いて聳える富士山が現れました。旅好きなこともあって今まで随分と色々な山を見てきましたが,間近で見る富士山の存在感は圧倒的でした。そのうえ,道端の不動産屋から紹介されて気軽に入ったマンション4階のベランタの真正面には,何の遮るものもなく富士山が裾野まで見事にその姿を見せていたのです。これがこの地で弁護士を開業する切っ掛けでした。 X 開業するまで 弁護士過疎地で開業を決めるまでは,何回か日弁連の過疎問題の対策委員会から資料を送って貰ったり,知り合いの弁護士の意見を聴きました。転身するなら一歳でも若いうちにという意見や,是非調停員を志望して調停の充実に力を注いで欲しいという意見もありました。一方,地縁血縁もない地域で事件の依頼があるのかと心配してくれる人もいました。色々な資料や意見を見聞きしながら自分の決心を具体化していきました。富士吉田市で開業を決めてからは,事務所を暫くは自宅兼用にすること,経済的な面では,とりあえず61歳から満額支給される年金をマンションの家賃や弁護士会費,生活費の一部に当てること,足りない分はこれまでの蓄えで補うこと,機器類は必要最小限にすること,共済組合に引き続き加入することなどを決めました。そして,実現できるかは分かりませんでしたが,年をとってから開業する者の我が儘として,引き受けたくない事件については無理をしないでその道の専門家に直ぐ回すことなどいわば仕事の選択基準を決めました。それと,事件処理に際しては,当事者がその事件で受けたダメージを出来る限りプラスに変える工夫と努力をすることを目標にしました。 平成14年3月に60歳で裁判官を退職しました。36年間の裁判官生活でした。その後,暫く旅行などで骨休めをしてから自宅で弁護士を開業したのは61歳になる3ヶ月前でした。それまでに購入した物品は,コピー機,各種印鑑,書類整理箱,多少の参考書位で,あとは必要に応じて買い入れることにしました。経理事務は妻がパソコンと弁護士会発行の経理の本を買い込んで始末してくれることになり,ホッとしました。 Y 開業してから 事件依頼の方は,最初は知り合いから頼まれた遺言書の作成事件が2件あっただけでした。地縁血縁もなく,ハローページに電話番号を掲載するなどという智慧もなかったのですから当然といえば当然です。ただ,思いがけないことに,間もなく新聞3紙が弁護士過疎地の解消ということで順次インタビュー記事を載せてくれた上,NHKも地方ニュースとして十数分のインタビューを放映してくれましたので,それを見たという人から相談が少しずつ来るようになりました。また,弁護士会の事務局も問い合わせがあれば紹介してくれていますので,現在は相談が週3,4件,その他8件ほどの刑事,少年,家事事件を抱えて生活費位は何とかなりそうです。家裁都留支部と富士吉田簡裁の調停員にも任命され,既に数件の調停事件を受け持っています。一番不安だった手続き関係は,マニュアルや書式集を参考にし,あとは職員や知り合いの弁護士に聞きながらやれば何とか凌げるようです。この都留支部管内の弁護士に対しては,原弁護士が書かれているように,国選弁護(法律相談,当番弁護士も含めて)の割り当てが極めて少ないので,その報酬で種々の費用を賄うことはできません(ただし,将来的には変更の可能性はあります)。また,クレサラ事件の相談は多いのですが,私は他の窓口を紹介することが多いので,これも収入には直ぐには結びつきません。しかし,組織や時間に縛られず,自分の考えで仕事を選べるうえ,当事者の苦しみや悩みをゆっくり聞いて,それを乗り越える努力を共に続けることが出来ることは何にも代えがたい喜びです。 甲府市で開かれる月1回の弁護士会の昼食会には皆勤していますが,その終了後若いときからの趣味である映画を見るのが楽しみです。家にいるときは時間があれば車を飛ばして河口湖や山中湖の湖畔や富士山麓の樹間の遊歩道を歩くのが日課となりました。観光地や別荘地として長く名を売ってきただけあって,優雅で美味しい飲食店や美術館,博物館などが数多くあり,生活を豊かに彩ってくれます。 この富士吉田の地での開業は,私にとって,今のところ,恵み多い選択であったように思います。 |