| 第5節 修復的司法について |
| 本節の論述は、必ずしもシンポジウム委員会の一致した意見ではない。 しかし、犯罪被害者支援と法制度をめぐる今後の議論に一石を投じるものとして掲載するものである。 1.修復的司法と被害者支援運動 これまでに論じられているように、わが国の犯罪被害者は、刑事司法システムを含む社会全体から見捨てられてきたと言っても過言ではない。なぜ、そのような状況になったのか。単なる法の不備に起因するものか、それとも刑事司法システムあるいは近代市民社会の本質的構造に根ざすものなのかが問われなければならない。なぜなら、もし、前者であれば従来の構造を前提として法を整備していけば被害者問題は解決されることとなるが、もし、後者であれば構造自体を転換させなければ被害者問題を根本的に解決することは出来ないということになるからである。 近時、一部の刑法学者などによって強力に主張されるようになった考え方に被害者関係的司法あるいは回復的司法・修復的司法という考え方がある。これは、被害者問題は刑事司法システムを含む社会構造に根ざすものであって、その構造を根本的に転換しなければ被害者問題は解決しないとする立場と言ってよいであろう。 この数年、被害者問題に焦点が当てられ被害者の権利がいろいろ論じられるようになり、わずかずつながら被害者保護のための制度改革が進みつつあるが、一方では、被害者保護の進展が被疑者側の権利侵害を招来するとの懸念も根強く主張されている。これまで被害者運動あるいは支援運動は、被疑者側の権利に比べて被害者側の権利が弱すぎるということを大きな根拠として行われてきた。その意味で、従来の被害者側の運動は権利均衡論に立脚しているということになろう。しかし、権利均衡論に立脚するだけの運動では自ずから限界が予想されると同時に、場合によっては、被害者側と加害者側の対立構造を抜き差しならない程に固定化してしまうおそれも否定できない。 もし、そのような状況になれば、被害者側の運動は国民の支持を失い、被害者問題の本質的な解決を見ないままとん挫してしまうのではないかとも思われる。そのような事態を招くことなく、被害者側の運動が健全な形で永続し、社会全体に裨益するためには、これまで被害者が悲惨な状況におかれていた理由、原因を合理的に説明すると同時に、被害者側の運動のもつ社会的意義、目指すべき目標を明確にする優れた理論が必要であろう。 従来の刑事司法システムを加害者関係的司法としこれに被害者関係的司法を対置させる考え方、将来の刑事司法あるいは刑罰制度の目的を、国家による犯罪者に対する応報にではなく、被害者と加害者(国家から見れば犯罪者であるが被害者から見れば加害者と呼ぶ方が正確であろう)及び加害者と社会の関係修復(法的平和あるいは社会的平和の回復、換言すれば加害行為によってもたらされた被害者及び社会のキズの修復)に置く修復的司法という考え方は、未だ熟してはいないがその理論の一つになりうる可能性を秘 めていることは間違いがない。 2.修復的司法と従来の司法 従来の刑事司法システムを加害者関係的司法と見る立場からは、被害者の刑事司法からの疎外はその構造に根ざした本質的なものということになる。たしかに、従来の刑事司法システムの主たる目的は、法秩序維持でありその観点からは、顕在化した被害者(既に犯罪の被害にあった者)の権利を保護あるいは回復することより、将来侵害されるかも知れない潜在的犯罪被害者の権利を保護することのほうが重要ということになろう。また、法秩序の維持は犯罪の事前抑止ということでもあるが、その観点からは犯罪者を社会的に隔離すること、あるいは犯罪者を更生させ再犯行為に走らせないようにすることが国家的関心事となる。 これまで刑事司法の目的として一般予防あるいは特別予防ということが言われてきたが、前者は潜在的被害者の権利保護であり後者は当該犯罪者の再犯防止すなわち更生である。こうしてみれば、これまでの社会においては、顕在化した被害者が国家の関心対象とされる余地 はほとんどなく、せいぜい証拠方法として法規範強化あるいは法規範回復のための手段・道具のように位置づけられてきたことも当然と言えよう。 また、修復的司法への転換を主張する学者は、「世の人々は、犯罪行為が行われたとき司法官憲を呼ぶ、司法官憲は直ちに現場に駆けつけ加害者と被害者を引き離し、加害者を犯罪者と決めて処罰手続に乗せ一件落着とする。これまで、それが正しい解決方法であることは自明であると考えられていたが、これでは被害者・加害者関係が失われる」と主張する。ここには、加害者・被害者分断システムとも言える現在の刑事司法システムの欠陥が明確に指摘されている。被害者・加害者の分断は、被害者を加害者の報復から保護するという側面、証拠方法としての被害者が加害者によって汚染されることを防止するという側面の他、加害者を被害者の報復その他から保護するという側面もある。 その結果、もし、司法官憲が介入しなければ、被害者は加害者が承諾さえすれば加害者に会うことも、加害者側の資料の提出を受けることも自由に出来るのに、一旦加害者が犯罪者として逮捕・勾留・起訴されると、司法官憲の峻拒により、被害者が加害者に面会することはほとんど不可能となるだけではなく、司法官憲によって押収された加害者側の資料に接することも極めて困難となる。そして、犯罪者(加害者)の更生の有無・程度も、被害者が関心を 持つべきこととは観念されず、更生過程からも被害者は遮断されることとなる。 また、理論的にも、犯罪が法益侵害と観念されていることの当然の帰結として、加害者甲は、被害者乙を殺害したから処罰されるのではなく、乙を殺害することにより、汝人を殺すなかれという規範に背いたから処罰されるということになり、乙という具体的な生身の被害者は、刑事司法の世界に居場所を見出すことは出来ない。 よく、被害者が「なぜ被告人は裁判官に謝るのか、被害者に謝るのが筋ではないか」と批判するが、従来の刑事司法を前提とすると、犯罪者(加害者)は乙を殺したからではなく、法に背いたから裁かれているのであるから(加害者は被害者に責任を負っているのではなく、犯罪者として法に対して責任を負っているのであるから)、法の主催者である裁判官に謝るのが当然ということになる。 こうしてみると、やはり修復的司法論者が唱えるように、刑事司法あるいはそれを支えている社会の基本的構造の転換なくしては、被害者問題の根本的解決はない、ということになろう。 ただ、修復的司法という考え方は純理論的なものではなく、優れて実践的なものであることから、その概念なども未だ明確に定義されるに至らず、応報的司法と対置させる形でその内容が示唆されることが多い。 例えば、早稲田大学高橋則夫教授によれば、@応報的司法が、犯罪を法の違反と理解するのに対し、修復的司法は犯罪を人間関係の侵害と理解する、A応報的司法が、悪事は刑法上の有罪に至ると理解するのに対し、修復的司法は悪事は被害者への害悪を償う責任と義務を生むと理解する、B応報的司法が、犯罪は他の損害と異なるものと理解するのに対し、修復的司法は、犯罪は他の損害・紛争と関係したものと理解する、C応報的司法が、罪の負い目は処罰によって解消されると解するのに対し、修復的司法は罪の負い目は償いによって解消されると解する、 D応報的司法が過去に焦点を当てるのに対し、修復的司法は将来に焦点を当てる、E応報的司法が、処罰及び抑止のためには苦痛 を賦課することを必要と理解するのに対し、修復的司法は両当事者の関係を修復する手段として損害回復が必要であると理解する、F応報的司法は、犯罪者による害悪は犯罪者に対する害悪によってバランスされると理解するのに対し、修復的司法 は犯罪者による害悪は償いによってバランスされると理解する、 G応報的司法が犯罪者を非難するのに対し、修復的司法は有害行為を非難する、H応報的司法が、司法は対立・排除を指向すると理解するのに対し、修復的司法は、司法は合意・融合 を指向すると理解する、I応報的司法が被害者のニーズと権利を無視するのに対し、修復的司法は被害者のニーズと権利を中心とする、J応報的司法が、行為の社会的、経済的及び道徳的関係を無視するのに対し、修復的司法は、それら全体の関係を重視する、 K応報的司法においては手続は疎外的であるのに対し、修復的司法においては、手続は和解を目的とする、L応報的司法は、違法行為に対し国家が独占的に対応するのに対し、修復的司法は被害者・加害者及びコミュニティーの役割を重視する、M応報的司法においては、コミュニティーは傍観者であり、観念的に国家が代行するのに対し、修復的司法においてはコミュニティーは修復過程の促進者とされる、とする(法律時報71巻10号搭載「被害者関係的刑事司法と回復的司法」、なお、引用に当たっては一部筆者の表現に置き換えた部分がある。また、「回復的司法」という表現については、本報告書の作成に際しては「修復的司法」という表現に統一することとなったことから引用に際してもその表現に置き換えてある。)。 これらの対比から、修復的司法という考え方は、刑事的紛争処理を国家の独占的権限・義務から両当事者及び地域社会の役割に転換する、刑事の民事化を促す、被害者の権利と被疑者の権利との共存を可能にする、必ずしも厳罰化を指向しない、被害者の癒しと加害者の立ち直りを重視する、被害者と加害者の距離を接近させる、などという効果あるいは結果をもたらすものであることが窺える。 3.修復的司法の課題と被害者支援運動の将来 しかし、この考え方にも課題がある。一つは、重大な犯罪の被害者の納得を得ることが出来るかどうかということである。殺人など重大事犯の被害者からは、加害者の顔を見るのもいやだ、加害者は絶対に死刑に処せられるべきだ、当初から加害者との和解を目的とした制度あるいは考え方を受け容れることは不可能であるなどという、ある意味では当然な意見が強く出されている。岡山弁護士会あるいは欧米の実践例でも、その多くが窃盗、傷害などの比較的軽度の事件であることは、修復的司法にとっては重大犯罪に対応できるかどうかが問題であることを示している。 ただ、最近、被害者の遺族が死刑が確定している加害者の助命を嘆願しているという報道がなされているように、環境が整えば重大犯罪にも修復的司法が機能する可能性があることは確かであろう。その環境を整えるためには、まず、被害者と加害者とが分断されている状況を改善することが不可欠であると思われる。 二つは、修復的司法は顕在化した被害者に焦点を当てたものであるが、潜在的被害者の保護すなわち犯罪の事前抑止機能を持っているかということである。多分、修復的司法が職業的犯罪集団の犯罪を抑止することはほとんど期待できないであろう。その意味で、従来の刑事司法システムをすべて修復的司法に置き換えることは現実的でないことは明らかであり、実践の中で修復的司法がよく機能する場面を見定めていくことが必要であろう。 このように、この考え方にも一定の限界や課題があることは事実ではあるが、それを前提としても、この考え方が被害者の癒しなどに一定の効果があることは、岡山弁護士会あるいは本シンポジウムで報告された欧米における和解プログラムの実践結果から明らかであろう。この和解プログラムあるいは被害者支援のボランティア活動が全国に拡大し、それらに対し地域社会から積極的に参加者が出るような状況になれば、地域社会を再活性化することも可能となる。 その意味で、被害者運動は単なる権利獲得運動に止まるものではなく、それを目的とするか否かにかかわらず、結果的に社会変革運動にまで発展する可能性を秘めた奥の深い運動であることを意識する必要がある。長期的には、被害者の被害者による被害者のための運動から、被害者の被害者による社会のための運動に発展昇華していくところに、被害者運動の未来があることと言っても過言ではない。 |