平成14年度
    「子どものための法教育」
       〜21世紀を生きる子ども達のために〜」


あらまし刊行に寄せてはじめに目次総論書籍紹介

法教育へのオリエンテーション
T 法教育の定義

 「法教育」という言葉自体は,アメリカのLaw-Related Education(LRE)の訳語として使われ始めた言葉である。アメリカでは,ロースクールでの法律家養成教育である法学教育(Legal Education)と区別される形で,1930年代から,市民の法や法制度に対する理解や法過程への参加を促す学校教育としての法教育が実践されるようになり,1960年代後半から,全国規模での展開を見せ,今日に至っている(アメリカの法教育の歴史については第1部第1章参照)。
 そのなかで,1978年に制定された法教育法では,LREとは,「法律専門家でない人々を対象に,法,法(形成)過程,法制度,これらを基礎づける基本原則と価値に関する知識と技術を身につけさせる教育」を意味すると定義された。

  'law-related education' means education to equip nonlawyers with knowledge and skills pertaining to the law, the legal process and the legal system, and the fundamental principles and values on which these are based.

 われわれが日本において実施すべきだと考えている法教育も,基本的にはこの定義で述べられているものと同一である。ただ,この定義自体が網羅的であり一般的であるので,これだけでその具体的内容を理解することは困難であろう。そこで,まず法教育の目的から考察していくことにする。

U 法教育の目的
 ――消費者教育,人権教育,司法教育との異同


 われわれが考える法教育の目的は,子どもたちに,自由で公正な民主主義社会の構成員として,自分たちの身のまわりに起きるさまざまな問題や社会の基本的な問題について主体的に考え公正に判断することができる能力を身につけることにより,社会に対して積極的に貢献できる,「有能で責任ある市民」(アメリカではこれを「理想的市民」と呼んでいる)となってもらうことである。このこと自体は,日本の文部科学省が社会科等の教育でめざしている「公民としての資質」の育成とも重なるものである。
 わが国がどのような社会をめざすべきかについては,憲法が定めている。憲法が前提としているのは,個人の尊厳を前提とした自由で公正な民主主義社会である。
 そこでは,私的自治が前提となる。私的自治とは,自分のことを他人が決定するのではなく,自分のことは自分で決定するということであり,さらにいえば,自分で決定したことは自分で責任をとる(自己責任)という社会である。そして,私的自治が集団のレベルに適用されると,自分たちのことは自分たちで決める,自分たちのことは自分たちで責任をとることとなる。
 では,このような社会を前提とした場合の法の役割は何であろうか。法の基本役割については,各人がそれぞれ異なった存在であることを認め,それぞれが独自の善き人生を追求していくことを前提に,それぞれに異なる者が平和的に共存していくことを可能とするための基本的枠組みを提供することであり,そこで用いられるものは「数の多さ」や「力」ではなく,「正しさ」や「理」を体現した公正なルールでなければならない。
 このような社会において望まれる市民とは,各人が自己の責任において,より善き人生が何であるかを自ら決定し,その実現のために,合理的に行動することである。そのためには,情報を集め,分析し,判断し,その際,他者も自分と同様により善き人生を追求する存在であることを忘れてはならず,仮に紛争が生じた場合,暴力ではなく公正なルールに従い,理性的に解決することが望まれる。そして,このような社会の枠組みを維持・発展させるために,自分のことだけではなく,公的なこと・社会のことがらについて,積極的に関わり合う態度が望まれる。
 すなわち,「理想的市民」あるいは「公民的資質」には,上述したようなものとしての法の価値・原理・ルール・手続の意義を認め,それに従って行動する能力としての「法的資質」が必要不可欠なものとなる。
 法教育とは,そのような法的資質の育成を通じて理想的市民をつくることをめざすものである。
 このように考えれば,これまで日本でも行われてきた消費者教育・人権教育・司法教育との異同も自ずと明らかになろう。消費者教育は「騙されない賢い消費者の育成」を,人権教育は「人を虐げる人をつくらない,また,虐げられる人をつくらないような社会の形成」を,司法教育は,「トラブルを未然に防ぐ,また,トラブルになったときに法的な救済を活用できるような力のある人の育成」をそれぞれ目的とするものと考えられるが,法教育は,これらを包含するものであるものの,それにとどまらず,それぞれが自律的主体的に自己の善き生き方をめざし,法をそのためのものと理解し,活用するとともに,法の支配の理念に根ざした,自由で公正な社会を実現する人の育成をめざすものである。

V 法的資質

 ところで,法的資質をどのように考えるかということは,何をどう教えるかを考える際の重要な問題である。
 ここではまず,法的資質とは,単に法的な知識の修得だけで形成されるものではなく,法的思考や法的参加の技能の修得,法や法の基礎にある価値に従って行動するという態度形成という3つの側面から成り立つものだということを確認しておきたい。このことは,アメリカの公民教育センター(Center for Civic Education)がつとに指摘している点でもある(第1部第2章参照)。
 法的資質の具体的要件については第2部でさらに詳細に検討することになるが,ここでは前述した定義に沿ってとりあえず次のように整理しておく(磯山恭子「『法教育』カリキュラムにおける責任に関する学習」〔「教科・科目間関連を生かした法教育カリキュラムの研究」に関する研究成果報告書に所収〕で分析されているドン・ローの法的実践能力としての6要件を参考にした)。
@ 自己の日常生活の中における数多くの場面が法と関連しているということを認識すること
A 法制度を理解すること
B どのように法が作られ変化するかという法過程を理解すること
C 日常生活において,法を発見し効果的に使用するのに適切な技能と批判的検討を行える技能を身につけること
D  法あるいは法の基礎にある法的原則や価値を認識し,それに従って行動すること
 以下では,法的資質の上述の要件をもう少し詳しく吟味してみたい。さらに,それを理解するのに必要な範囲で法理論的説明も加えておくことにする。それは,法教育を施す教師の側の素養として,そうした法理論の理解も必要だと考えるからである(法理論に関しては,田中成明『法理学講義』〔有斐閣,1994年〕,平野仁彦・亀本洋・服部高宏著『法哲学』〔有斐閣,2002年〕を参考にさせていただいた)。

(1) 日常生活の中の多くの場面が法と関連していることを認識すること
 このことは,現代社会においては社会生活のほとんどの領域が法律によって規制されているということを認識させようとすることを必ずしも意味するものではない。
 むしろ,規範としての法は,制定法以外にも存在するものであること(法理論的には法源の問題であり,慣習法の存在が認められている。ただ,社会レベルでは,学校の規則や特定の集団内のルールも法と捉えうるものであり,法教育的観点からは,このような身近なルールから法を考えさせることが有用だと思われる),私人間においては,第一次的には,自主的な権利義務関係の形成が期待され,そこに形成されたものがなによりも法であるという扱いを受けること(私的自治)を認識することが重要である。すなわち,法が社会秩序を維持するものとしての国家による強制というイメージを払拭し,自らが法形成過程の主役であることが認識されなければならない。
 要するに,自らが法によって法的問題を解決するという態度,そのための技術を身につける前提として,このような認識が不可欠となるのである。もし,このような認識がないとすれば,人は法に従った適切な行動をとろうとはせず,そのことは,その人が不利益を被るばかりか,その人の周囲の者に対して,さらには,社会に対しても不利益をもたらすことになるのである。
 このことは,社会に生起する問題には何から何まで法的規制が必要であるという意味では決してなく,法には限界もあることも認識しなければならない(法的な態度という意味では,それは,あらゆる問題解決に役立つものであるが)。一般には,法は,規制手段として最も有効であると思われており,社会において何か問題が生じると安易に法的規制が求められる場合が多い。
 しかし,例えば,道徳的なことがらに対し,どこまで法的に介入してよいのか,市場経済に対し,どこまで法的規制をしてよいのか,などは,難しい問題を含んでいる。われわれは,つねに法の役割に立ち返って,法的規制の要否・適否を検討していかなければならないのである。

(2) 法制度を理解すること
 法規範が実際に機能するためには,それを支える制度的仕組みがあることが前提となる。法制度が実際にどのように運用されているかを理解しなければ,法に対する理解は十分とはいえない。
 今日の民主主義国家における法制度は,西欧における近代国家の成立とともに整備された制度を基本的には継受したものであり,日本もその例外ではない。
 そこでは,一方で,国家に権力が集中し物理的強制のメカニズムは独占され,他方で,その発動が恣意的になされないよう,権力行使自体が法によって規制された。
 法規範は,原則として国民代表議会などの特定の公権力機関によって所定の手続に従って定立され,あらかじめ一般の市民に公示され,市民に対して平等に適用される。このような一般的法規範があらかじめ存在することにより,市民は,その法規範に則ってどのような権利義務関係を具体的個別的に形成するかについてのイニシアティヴを持つことになる(法の市民に対する活動促進機能)。
 また,法規範を一般的に定立する立法作用とこれを個々の具体的事件に適用する司法作用が区別され,公権的司法機関として,立法部・行政部からの独立を制度的に保障された裁判所が設置され,その政治的中立性が強調された。
 法の支配は,法の一般性,法律の公知性・明晰性・非遡及性,適正手続,公権力機関による法律の忠実な遵守等々を要請するが,一般的な法律を具体的事件に公平に適用する独立の裁判所の存在は,その必須の制度的保障である。
 司法的裁判は,法システムが社会秩序維持や活動促進などの社会的機能を実現する過程でも決定的に重要な位置を占めている。刑罰などの強制的サンクションの発動は必ず裁判による審理・決定を経なければならないとされ,権利義務をめぐる紛争も,当事者が望むなら裁判によって最終的な決着をつける仕組みが存在することは,法による社会秩序維持や活動促進が公正かつ実効的に行われるうえで不可欠である。

(3) 法過程を理解すること
 われわれの日常生活を取り巻く法の問題を考える場合,単に法規範だけを取り上げるのではなく,法の定立・適用・執行についての過程(裁判外での自主的な取引交渉・紛争解決過程,犯罪防止・秩序維持や各種の資源配分に携わる行政過程も含む)についても視野に入れなければ,法全体を理解することはできない。
 また,その際,法は変化することが可能であり,実際に変化するということが認識されなければならない。
 例えば,公害被害の法的救済の拡充について,法規範自体に変更がない場合でも,かつては「立法論」「政策論」あるいは「常識論」として斥けられていた解釈が,今日では判決の中で「解釈論」「法律論」として堂々と通用していることなどに象徴的に見られるように,法規範の具体的な内容は,社会的必要に応えて創造的に形成され変化してゆくのである。このように法規範の内容が具体的に確定され現実に実現される過程には,法律家だけでなく一般の人々の参加も不可欠である。
 このことが認識されなければ,法に関する議論に対して市民として参加する価値や,法が社会における変化に対してどのように応えていくのかを理解することはできないだろう。

(4) 日常生活において法を発見し,効果的に使用するのに適切な技能と批判的検討を行える技能を身につけること
 法理論的には,とくに裁判過程における法的思考の問題として,事実認定,法的三段論法,解釈手法,議論などという形で論じられている問題と関連する部分である。
 しかし,法教育でめざすものは,そのような意味での法的思考・技術までは要求するものではない。
 まず,本当に問題となっている点を発見する技術である。これは,問題点を明確化することによって,思考を集中するために必要な技術である。
 次に,問題を分析する技術である。これには,情報を収集する技術,整理する技術などが含まれよう。
 そして,そうしたプロセスを経て,自己の意見を確定する技術である。何ごとにも自己の意見を表明することができるようになること自体,大事なことであるが,その際,自己の意見の根拠をできるだけ客観的な情報によって根拠づけるようにしなければならない。
 さらに,公正なルールに従った問題解決への技術も身につけなければならない。
 現実に紛争に直面したときや,公共的問題を論じる際には,相手の人格を尊重しつつ自分の意見を表明し,相手の意見を聞き,討論し,問題点を発見し,必要であれば自分の意見を修正し,または相手の意見を修正するよう説得して,合意を得るといった態度,技術が必要となるのである。

(5) 法あるいは法の基礎にある法的原則や価値を認識し,それに従って行動すること
 法教育によって最終的にめざされるのは,市民として責任ある行動を積極的に行う態度形成である。
 前述したように,法というものが,各人が,それぞれ異なった存在であることを認め,それぞれが独自の善き人生を追求していくことを前提に,それぞれに異なる者が平和的に共存していくことを可能とするための基本的枠組みであり,そこで用いられるものが「正しさ」や「理」を体現した公正なルールであることを認識し,そうしたものとしての法に従って,法に関する問題を解決するという態度である。
 法理論的には,法の妥当性,正義論と関係している部分であり,やや難解ではあるが,一応の説明をしておく。
 人々が法に従う理由としては,権力による強制があるからだというのも,内面の意識の問題としてはひとつの答えであろう。
 しかし,それが人々の納得のできないものであれば,権力による強制によって一時的な社会秩序を得られることはあっても,長期的な安定を得ることはできない。
 結局,人が法に従うのは,社会の多数の人々が,所定の手続に従って法定立機関が制定し,法適用・執行機関が実現している法規範を受け入れることを納得しているという点に求めざるをえない。
 しかし,その法規範がそれに納得しない少数者に対しても義務づけられる規範的妥当性を持つものだとすれば,多数の人々が納得していることのみをもってその妥当性を根拠づけるのは困難であろう。そこでは,法が,一定の価値理念の実現をめざしていることへの了解が前提になければならない。
 このような法全体の一般的な目的として追求されるべき価値・理念は,「正義」の問題として論じられている。
 法理論的には,現代正義論はまさにホットな論争点であり,さまざまな議論がなされているが,ここでは,正義観念を,適法的正義,形式的正義,実質的正義,個別的正義(衡平),手続的正義に分けて,その内容を簡単に説明するにとどめる。
@  適法的正義とは,法に正しく適合することであって,ここでは法の内容それ自体の正・不正は別にして,ともかく法が忠実に遵守され適用されているかどうかが問題とされる。
A  形式的正義とは,「等しきものは等しく,等しからざるものは等しからざるように扱え」という定式で表現されるものであり,取扱いの恣意的専断を排除し,予測可能性を担保するための形式的で画一的な制約を課する。しかし,この形式的正義の要請はいったい何を「等しきもの」と見なすのか,その実質的基準については何も語らない。
B  実質的正義は,例えば「各人に彼のものを」「各人に(努力・必要・功績など)に応じて」といった基準を導入することで正義に具体的な内容を吹き込むものである。実質的正義は,それが問題となる社会関係の区分に対応して,社会成員間の利益と負担の割当てに関する配分関係における正義(配分的正義)と,並列個人間の利得と損失の調整(侵害に対する賠償・救済や制裁をも含めて)に関する交換関係における正義(交換的正義,匡正的正義)とに分けて論じられることが多い。現代正義論の主な関心は配分的正義であり,自由,平等,効率という3つの価値の各々の概念解釈と相互関係の確定が中心争点となっている。
C  個々の事例に一般的な基準を画一的に適用するとき,われわれの正義感覚に反するようななんらかの不都合な結果が生じることがある。そのとき個別的正義(衡平)は,このような一般的基準の画一的な適用に一定の制約を課することで具体的妥当性の確保に努めるのである。
D  このような取扱いに関する一定の形式的な制約や実質的な基準とともに,その取扱いの公正な遂行過程を保障し結果への受容可能性を支えているのが手続的正義であり,これは裁判や行政過程における決定手続と紛争処理に際して紛争当事者に公正な手続と公平な配慮を提供する重要な役割を果たす。

W 法教育の必要性

 前述してきたように,自由で公正な民主主義社会において,法が基本的枠組みとしての公正なルールを提供するものである以上,法の価値・原理・ルール・手続の意義を認め,それに従って行動する能力,そのための技術としての「法的資質」が必要不可欠であると考える。
 こうした法的資質の修得は,今,現実に必要とされているものである。
 例えば,司法制度改革の議論として,裁判に国民が参加する「裁判員」制度が取り入れられることになった。これは,裁判過程において,法律専門家による専門的知識に偏らず,市民の日常生活における常識的な知恵,感覚,洞察力を加味しようとするものだといえよう。
 このような考え方を徹底したものがアメリカで取り入れられている陪審制であるが,陪審の模様を描いた映画「12人の怒れる男たち」を例に挙げるまでもなく,そこに参加する市民に,最低限,前述したような能力が備わっていなければ,そのような制度も実効性を失ってしまうのである。
 さらに,現代社会における資源配分的法令の増加は,一方で,行政機構の肥大化と機能不全,国家の財政負担の増大などの問題も生じさせた。これに対して,政府の規制緩和が叫ばれ,実際に,日本でも各種公共企業体の民営化や銀行や企業に対する規制の緩和がなされた。このような状況は,市民が自分の生活領域を自分で守らなければならないことを意味する。もはや市民は国家による保護の対象であると甘えていることは許されないのである。ここでも,市民が自分で法的関係を規律する主体となることが要求されているのである。
 しかし,残念ながら,上述した態度・信念,技術は,今の日本人に最も欠けていることではないだろうか。
 われわれは,このような資質を育成するための法教育が今こそ必要だと考えているのである。

X 法教育とは何か

 前述してきた法的資質を育成するために,何をどのように教えたらいいかについては,第1部以下で詳細に検討するところであるが,ここでは,あらかじめ法教育のイメージを持ってもらうために,道徳教育,法学教育,法教育のアプローチの違いを検討してみたい。
 いずれの場合でも題材として用いることができる事例として,「ある子どもが,学校の帰り道,他人の所有する白壁にマンガの落書きをして壁が汚れた。そのため,白壁の所有者は,補修が必要となった」という場合を取り上げて考えみる。
 まず,道徳教育の場合,子どもたちに対して,人としてあるべき姿を教えることを目的とする。そのために,設例のような場合には,落書きという行為は,他人に迷惑をかけることなので,理想的な生き方ではない,人に迷惑をかけることはいけないという社会のルールに反するとして,社会のルールや公徳を大切にしなければならないと教えるだろう。道徳の授業でこのような設例を設けても,多くの場合は,その限度の説明で終わると思われる。
 次に,法学教育ではどうだろうか。
 現在の法学教育では,法律の解釈(判例や学説)を教えることが主流である。そこでは,多くの場合,法律は所与のものとして扱われ,法律の妥当性自体を検討することは少ない。そして,事例問題を考える際も,そうした条文の解釈を踏まえて,具体的行為に具体的な条文を当てはめて法的結論を導き出すことが目的となる。極端な場合は,いかに結論が不合理であっても,条文の(自分の体系的な)解釈としては,そう解さざるをえないという態度が是認される。
 その場合の法的思考としては,条文として「人を殺した場合(要件)は,死刑(効果)とする」という大前提があり,「Aは,Bを殺した」という小前提から,「Aを死刑とする」という結論が導かれる。この思考パターンは,法的三段論法と呼ばれる。
 壁に落書きをしたという設例の場合,民法の授業であれば,不法行為に基づく損害賠償請求が認められるか,また,刑法の授業としては,器物損壊罪に該当するかということを,各条文の解釈を交えて教えることになろう。このうち民法の不法行為が認められるための要件は,@故意・過失,A責任能力,B権利侵害,C損害の発生,D因果関係,E違法性阻却事由のないことであり,効果は,損害賠償である。
 これらの要件の解釈を踏まえて,各要件を充たす事実があるかを検討することになる。少年がわざとしたのであれば,@の故意があることになる。自分の行為がどのような結果をもたらすか判断する能力があり,それを避けるだけの能力があれば,Aの責任能力があることになる。落書きによって壁の所有者の権利を害しているのでB権利侵害がある。落書きにより,壁の補修を必要とするC損害を発生させている。損害の発生は,少年の落書きによって生じているのでD因果関係が認められる。少年には,落書きをしないといけない正当防衛や緊急避難などの事情はないことから,E違法性阻却事由がない。以上から,少年は,落書きによって壁の所有者に生じた損害を賠償すべきとの結論が導かれることになる。
 それでは,法教育のアプローチはどうだろうか。
 法教育では,前述してきたように法的知識,技能の修得,態度形成が総合的にめざされる。したがって,設例の場合も,さまざまな観点からのアプローチが可能である。
 例えば,高校生レベルであれば,実定法を理解させるという意味で,前述したような法学的アプローチもありうるであろう。
 これに対して,小学校・中学校レベルでは,このような設例から,われわれの社会では「壁に落書きをしてはいけない」というルールがあるということを教えるとともに,そこから法がなぜ必要なのか,なぜ法に従わなければならないのか,さらには不正や損害が生じた場合の対応の仕方はどうすればいいのか,そのための法的制度はどうなっているのかということまで展開して,子どもたちに法に従って問題を解決していく技術の修得や態度形成を促すことになる。
 不正や損害が生じた場合の対応の仕方をどう教えるかについても,法教育がめざす法的資質の内容から考えるとき,前述したような法学的アプローチとは異なるものとなろう。
 その一例として,ここでは,アメリカの公民教育センターが作成した“Foundations of Democracy”シリーズの小学校高学年向けテキストの「匡正的正義の問題解決のための知的道具」を使ってアプローチしてみよう(詳しくは第1部第2章を参照)。
 まず,どのような問題状況なのかについて,分析する。具体的には,@この場合の不正や損害は何かについて考える。設例では,他人の物を傷つけてはいけないというルールに反する不正が行われ,落書きという損害が発生している。Aこの場合の不正や損害がいかに重大か,人や物に対する影響や期間などを考える。設例では,壁の所有者が影響を受けているが,広範囲ではない。期間も限定的である。Bこの不正や損害を行った人は,意図したのか,偶然なのか,理解する能力があったか,注意を払ったか,以前も同じことをしていないか,反省しているか,集団の場合の果たした役割などを考える。設例では,少年は意図して落書きをした。小学生程度なら理解力はある。前科や反省は不明である。C不正や被害を被った人の側に,起こったことになんらかの関わりがあるか,被害回復能力があるかについて考える。設例では,壁の所有者に,生じた被害について落ち度はない。落書きが軽微であれば,修復の能力があるとみることができる。
 次に,問題状況を分析した後に,どのような対応をすべきかについて,以下のような視点から検討する。@不正を正したり,損害を回復したりするために何ができるか,例えば,無視する,損害を与えた人に通知する,許す,修復・回復させる,支払いをさせる,罰する,処置や教育を受けさせるなどが検討される。
 民法の不法行為では,損害賠償義務が発生し,刑法の器物損壊罪に該当すると,3年以下の懲役または30万円以下の罰金もしくは科料に処せられる。これらは,支払いをさせる,罰するということになる。
 しかし,法教育のアプローチであれば,落書きという不正や損害に対応する方法としては,これらの法律以外に無視する,通知する,許す,修復・回復させる,教育を受けさせるなどの方法もあることがわかる。仮に,罰するという対応をとるとして,さらに,Aその対応が適切かどうか,不正や損害の重大さを適切に考慮しているか,他人の自由や権利を侵害していないかなどが検討されなければならない。軽微な損害しか発生させていないのに3年以下の懲役という罰は相当ではない。また,罰するのに少年の頭を丸刈りにするなどは人権侵害となる。B最終的には,どのような対応をとるか決定をしたら,その決定がどのように不正や損害を回復するか,同じ人が近い将来,同様のことをするのをどのように防いでいるか,他の人が同様のことをしようとするのをどのように思いとどまらせているかという点から検討される。仮に,少年に落書きした壁を補修させるとした場合,壁の汚れという損害は回復できる,また,補修をさせることでその少年は同じいたずらを思いとどまるかもしれない。落書きをすると補修しないといけないとなると,他の子どもたちもいたずらを思いとどまるかもしれない。
 このように法教育的アプローチは,道徳的アプローチに比べて,問題を分析的に,また,法学的アプローチに比べて,かなり柔軟に対応することができる点に特色がある。
 法学的アプローチの場合,法的三段論法をとっていることから,大前提として法律の正確な知識が必要となるが,法教育的アプローチは,常識的な判断をベースにしているため,法律の知識がない場合でも問題分析ができる。
 逆にいえば,法教育では,このような形での問題分析能力の育成がめざされているのである。