関東弁護士会連合会は、関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

関東弁護士会連合会ブログ「調子に乗って勘弁れん」関東弁護士会連合会ブログ「調子に乗って勘弁れん」

「血肉とさせていただきます」

HN:蟹座のデスマスク(茨城県弁護士会)

  

 我々は,自らの生命を維持するため,日々あるいは定期的に何らかの方法によってエネルギーを摂取する必要があります。

 

 その方法としては,他の生物,あるいは栄養価の付加された人工物を口に入れ(咀嚼して噛み砕き,飲み込みやすい形状にして),飲み込む,いわゆる「食事」が最もポピュラーなものと思われます(それ以外の方法によってエネルギーを摂取されている方は,軽くお読み飛ばしください)。

 

 「食事」はとても大事です。食べたものが体内において分解吸収されることで,それはエネルギーとして消費されるだけではなく,血となり,肉となり,骨となるわけですから,もはや,その人間の体はその人間が食べたもので形成されていると言っても過言ではありません。

 

 仮に,遺伝子的に同一の個体(例えば一卵性双生児)において,とにかく肉を食べまくる兄と,どちらかというと魚や野菜中心の食生活を送る弟に分けたとしたら,その兄弟は成長するにつれ,顔や体付きを含め,性格すらも全く違う人間になるのではないかと考えています。

 

 要するに,何が言いたいかというと,食べるものを選ぶときはよくよく考えて選ぶ必要があるということです。

 

 また,ここまで「食事」について,主に生命維持・人体形成の観点から述べてきましたが,みなさんもご存知のとおり,「食事」には栄養摂取行為としてのそれとは違った意味が付加されることがあります。

 

 それは,「美味しい」という評価です。

  

 「美味しい」ものを食べることができると幸せです。栄養摂取以上の満足感は,ストレス解消にすらなり得ます。

 

 反対に,食べたものが「美味しくない」場合には,栄養摂取ができたとしても,不満,失望,悲哀,場合によっては怒りも生じ得るでしょう。

 

 つまり,「食べるものを選ぶ」ということは,自分の物理的な構成要素を選ぶということ以上に,精神面においても多大な影響をもたらす極めて重要な行為なのです。

 

 ところが,ここには大きな問題が潜んでいるのです。幸福感を得ることができる「美味しい」や,不満を感じる「美味しくない」という評価基準についてです。

 

 あくまでも私個人の意見ですが,「評価」というものは主観的なものでしかあり得ず,仮に「客観的な美味しさ(絶対的な美味しさ)」という概念が成り立ち得たとしても,それは単に「誰かが美味しいと言っていた」という意味程度で,それ以上でもそれ以下でもないものと考えています。

 

 つまり,「美味しい」,「美味しくない」の判断は,食べる側の主観的な評価=「好み」に委ねられているものである,と。

 

 もちろん,「ここは食○ログの評価が4越えのお店なんだよ」,「予約がなかなか取れなくて予算1人最低1万円のお店なんだよ」という食べるもの以外の情報によって評価が増減される場合もあり得るとは思いますが,そのあたりも各人の判断基準としての「好み」ですし,心理学や行動経済学においては,ブランド認識も含めた商品の持つストーリーが味覚に影響を与えるとの説が実験結果に基づいて論じられることもあるようです。

 

 いずれにせよ,大事なことは,最終的に本人が満足するかどうかなのですから,自分のために,自分が美味しいと思うものを食べて生きていくことができれば,それはとても幸せなことだと思います。

 

 さて,今日は何を食べようか,当たり前のように何気なく,しかし極めて重要な選択を我々は日々迫られているわけですが,限りある時間の中で,可能な限り,幸せな自分を,幸せな人生を選びたいものです。

 

 ちなみに,私は,たまに無性にカレーが食べたくなる日があり,そのような場合にはコ〇イチに行き,迷うことなくフライドチキンカレーにほうれん草とチーズのトッピングを頼みます。たまに他のトッピングを試してもやっぱりイマイチで原点に帰るなどして,ここ数年ずっとこの一択です。至高のトッピングです。他には考えられません。

 

 もちろん,あんなにもたくさんの種類のトッピングがあるわけですし,「好み」は人それぞれですから,異論は認めるので勘弁れん!

PAGE TOP