
従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
元フリースタイルスキー・モーグル選手
上村 愛子さん
今回の「関弁連がゆく」は、元フリースタイルスキー・モーグル選手の上村愛子さんです。高校3年生での長野五輪(1998年)への出場で一躍注目を集め、以降ソチ五輪(2014年)まで5回大会連続で五輪に出場し、全ての大会で入賞を果たされるなどモーグル界のトップ選手として長年に亘りご活躍されました。Wカップ年間総合優勝(2007-2008)、世界選手権優勝(2008-2009)も果たして世界一の称号にも輝かれたほか、技術面でも3Dエア「コークスクリュー720(※1)」を最初に完成させ、カービングターン(※2)を極めるなど卓越した技術で世界の女子モーグル界を牽引された世界的なモーグル選手のお一人です。
今回のインタビューでは、現役時代のお話や来年2月に開幕を控えたミラノ・コルティナ五輪についてのお話を伺いました。
(※1)縦と横ひねりの回転を組み合わせる空中演技(3Dエア)の一種で縦に1回転しながら、横に2回転する大技。
(※2) スキー板のエッジ(端)を雪面に立てて雪を削る(Carve)ように進むターンのこと。モーグルのコブの斜面でカービングすることは極めて難易度が高い。
― スキーはどういう切っ掛けで始められたのですか。
上村さん
生まれは元々兵庫県でしたが、両親の仕事の都合で3歳から長野に引っ越したのが切っ掛けで、物心がついた時には自然とスキーを履いて遊んでいましたね。小学1年生からはもっとスキーがしたいと思って地元のアルペンスキー(※3)のジュニアチームに入りました。冬は学校が終わったら毎日スキーをするような生活でしたね。
(※3)雪山の傾斜を滑り降り、コースに設置された旗門を通過して、タイムを競うスキー競技。
― そこからモーグルに転向された切っ掛けは何でしょうか。
上村さん 中学2年の時に母の勧めで1人でカナダにスキーをしに行ったことがあるんですが、たまたまモーグルのWカップが開催されていて、そこで初めてモーグルを見たんです。アルペンと全く違う競技ですが、ジャンプをしたりコブを滑ったりする姿がカッコ良くてワクワクしましたね。「こんな面白そうな競技があるんだ」と感動して自分でもやってみたいと思ったのが切っ掛けですね。
― モーグルではアルペンとは全く違う技術が必要だと思うのですが、転向されて僅か2年後の16歳でWカップの表彰台に上って、それから高校3年生の18歳で長野五輪に出場されています。本当に天才というか凄い才能ですね。
上村さん いえいえ(笑)、才能ではなくて時代のお陰だと思います。当時モーグルは五輪の正式種目になってから日が浅くて、競技人口も今ほど多くなかったんです。それで長野五輪に向けて日本でモーグル選手の育成に力を入れていた時代があったんですが、ちょうどその時代に乗ることができたんですね。勿論最初は上手く滑れなくて、直ぐコブに飛ばされていたんですが、毎日練習していると2つ、3つ、4つと少しずつコブを滑れるようになってきて、出来ないことが出来るようになっていく成長の過程が凄く楽しかったですね。負けず嫌いの性格もあってどんどんモーグルにのめり込んでいきました。
― 高校3年生で地元の長野五輪に出場されたということで上村さんのご活躍は大きくマスコミでも取り上げられました。長野五輪への意気込みはいかがでしたか。
上村さん 地元で開催された五輪に出場できたことがいかに幸運だったかということは後々分かりましたね。モーグルを始めてまだ数年でしたので出場できるという確信は全くなくて、五輪開催の1か月前にギリギリで出場が決まったんです。それで当時はメダルを獲りたいという気持ちよりも目の前の技術を習得することに必死でしたね。五輪出場が決まってからは、プレッシャーというよりは、楽しく滑りたいと思ってました。よく家族で善光寺さんにお参りに行っていたのですが、その近くの山で五輪が開催されるということで、なんだか善光寺さんに守られているようで全てが上手くいくような気がしましたね(笑)。私の滑りを見ていただいた方に、私が初めてモーグルを見た時のようにワクワクした気持ちになってもらえるような滑りがしたいと思っていました。
― 7位に入賞されましたが長野五輪の感想はいかがですか。
上村さん 当日は飯綱高原の空は真っ青に晴れていて、雪も真っ白で本当に景色が綺麗だったのが印象的でしたね。見たことがないくらい沢山の人たちから応援いただいて本当に楽しんで滑ることができました。7位入賞はシーズンベストの成績でしたので、自分の中では本当に満足のいく結果でしたね。里谷さんの金メダルもあって会場は大盛り上がりで大成功だった思います。
― その里谷多英さんが金メダルを獲得されたのをご覧になってどのようなお気持ちになりましたか。
上村さん チーム全員で里谷さんの金メダルを喜んで、私も本当に嬉しかったです。今までテレビで見ていたような物凄い盛り上がりを目の前で見ることができてとても気分が高揚しましたね。ただその夜くらいから自分もあの場所に立ってみたい気持ちが芽生えてきました。里谷さんがメダルを獲られたのを目の前で見てから、私もメダルを獲って皆と喜びを分かち合えるような選手になりたいと思いましたね。長野五輪を境に私の競技人生の目標がメダルへと大きく変わっていきました。
現役最後のレースとなった全日本選手権(2014年3月)の様子
― 長野五輪7位入賞に続いて、その後ソルトレイクシティ五輪(2002年)で6位、トリノ五輪(2006年)で5位に入賞されました。そしてWカップの総合優勝や世界選手権優勝という素晴らしい成績を残されてバンクーバー五輪(2010年)に臨まれて、金メダルの有力候補にも挙げられていましたが惜しくもメダルに届かず4位でした。バンクーバー五輪はどのような大会だったのでしょうか。
上村さん 長野五輪以降はメダルを獲ることにこだわってきて、一番メダルに近づいたのがバンクーバーだったと思います。Wカップや世界選手権で結果も出せて成長できていたとは思うんですが、五輪が終わった後に、まだ自分自身を信じきれていない部分があったということに気づきました。自信を持って臨めばよかったのに、どこかで「メダルを獲れなかったらどうしよう」、「周りの人が落胆するんじゃないか」という恐怖感があったんですね。今考えると「そういう気持ちがあるのも私なんだ」と自分を受け入れてあげて、それでも頑張って五輪の舞台に立っている自分に自信を持てばよかったんですけど、当時は勝手に「そんな気持ちがある人は勝てない」と決めつけてしまっていたんだと思います。バンクーバー五輪はパズルで言うと最後の1つのピースが埋まらずに残してきてしまったような、そんな大会でしたね。
― バンクーバー五輪のインタビューで「なんでこんなに(五輪の順位が上がるのが)一段一段なんだろう」とおっしゃったのが非常に印象に残っています。
上村さん 実は「ようやくメダルが取れました」っていう話をしようと思っていたので、負けた時の言葉って何にも考えてなかったんです(笑)。あの言葉は本当に素直にでた言葉で、メダリストになることの難しさをつくづくと感じましたね。メダルに近い選手ではあったと思うんですけど、挑戦すればするほど、近いと思っていたメダルが実は遠かったんだということに気付きました。
― バンクーバー五輪後はどのように過ごされていましたか。
上村さん 実は30歳になるバンクーバー五輪でメダルを獲って引退しようと考えていたので引退も考えました。1年間はモーグルの練習はほとんどせずに休んでいましたね。でもメダリストになりたいとずっと頑張ってきた自分が、メダルを獲っていないのにこのままやめていいのかどうか、自問自答しながら過ごしていました。
― そこから次のソチ五輪(2014年)を目指そうと思われたのはどうしてですか。
上村さん 休んでいるときに東日本大震災が起きて、ボランティア活動をさせていただいたんですが、私にたまたま気づいてくださった年配の女性の方から「五輪ずっと見てたよ。次も出るんでしょ」と笑顔で声をかけていただいたんですね。その時に私がメダルを獲らなくても、多くの方が見ていただいて、応援してくださってるんだということに改めて気付いて、メダルを獲ることだけが全てじゃないんだと思い始めました。「メダルを獲れなかったらどうしよう」と怖がりながらでも、それでも目標は変えずに、ありのままの自分で戦えばいいんだと気付いたんですね。やっぱりモーグルが好きでしたし、応援していただいている方に頑張っている姿をもう一度見ていただきたいという思いもあって、ソチ五輪に挑戦しようと思いました。休んでいるときに色々な方にお会いできて、本当に良かったと思いますし、多くのことに気付かせてもらえた1年でしたね。
― 最後の五輪となったソチ五輪では、バンクーバー五輪と同じ4位という結果でした。ソチ五輪を振り返っていかがですか。
上村さん 同じ4位という結果ではありますが、ソチは心から納得のいくパフォーマンスが出来た大会でしたね。1年間休養して、3年しか準備ができなかったんですが、挑戦すると決めた以上、私がやるべきこと、できることは何でもやっていこうと覚悟を決めて臨みました。ソチ五輪は技術的、体力的に良い状態で戦えて、精神的にもプレッシャーにも怖がらず向き合えていたので、バンクーバー五輪と違って不安感もありませんでしたね。これまで自分の積み重ねてきた全てを五輪の舞台で出し切って、「これが今の私の全てです。これ以上のものはありません。」と胸を張って言える滑りができました。今見返してもいい滑りが出来ていると思うので、レース直後はメダルが獲れたんじゃないかと思いましたね。結果的にメダルには届きませんでしたが本当に達成感がありましたね。
最後レースでエアを披露する上村さん
― 私もソチでメダルを獲られたと思いましたし、またバンクーバー五輪や「コークスクリュー720」が決まったトリノ五輪の演技も素晴らしくて、あれでメダルが獲れないのは本当におかしいと感じていました。
上村さん でも細かく見るとミスがあったと思います。私はアグレッシブに滑るカービングという技術に挑戦していて、結構ジャッジするのが難しい選手だったんですね。カービングに挑戦してミスをする選手と、カービングよりは技術は劣るけどミスをしない選手を比べると、やはりミスをした方の点数が低くなりがちだったんです。それでもカービングにチャレンジすることに私は楽しさを感じていたので、ジャッジには案外納得していて、そこはもう自分のこだわりだったので仕方がないなと思ってます。
― さて五輪でメダル獲得こそなりませんでしたが5大会連続で入賞され、また、Wカップの総合優勝や世界選手権優勝に輝くなど素晴らしいご活躍でした。約20年間の競技生活を振り返った感想はいかがですか。
上村さん モーグルを「面白そうだな」と思って始めた時には想像もしていなかったところまで辿り着かせてもらえたと思っています。モーグルに出会えなければ知らなかった世界を見ることができて、素晴らしい経験を沢山させてもらいました。Wカップの総合優勝や世界選手権優勝も五輪のメダルという大きな目標がなければ絶対に辿りつけない場所だったと思っています。20年間モーグルという競技に一生懸命向き合って本当によかったと今でも胸を張って言えますし、支えていただいた周りの方には本当に感謝しています。今思い返しても本当に素敵な20年間だったと思いますね。
引退セレモニー後の上村さん(2014年3月)
― 長年に亘って素晴らしいご活躍を見せていただいて本当にありがとうございました。さてミラノ・コルティナ五輪が来年2月に控えていますが、まずモーグルでの注目選手を教えて頂けますか。
上村さん
男子選手では堀島行真選手ですね。彼は昨シーズンの世界選手権で金メダルを獲って、絶対王者と言われるカナダのキングズベリー選手と互角に戦える唯一の選手と言われています。堀島選手は次の五輪でも素晴らしいパフォーマンスを見せてくれると期待しています。
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あと上村さんと同じ白馬村ご出身の渡部暁斗さんが4大会連続のメダルに挑戦されますね。
上村さん
彼は所属していた北野建設での後輩でもありますが、入ってきた時から凄く堂々としていて王者の風格がありましたね。先輩後輩というのを抜きにしても尊敬できる選手なので是非頑張って欲しいと思います。見てる側も絶対ワクワクできる試合展開をしてくれるんじゃないかなって期待しています。
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さて引退後は様々なご活躍をされていますが、環境問題にも取り組まれて絵本「ゆきゆきだいすき〔2022年小学館〕(※4)」の作画も手掛けられています。今後、どのような活動をされたいですか。 上村さん
個人的な目標としては、雪が降る場所に住んでいるので、自分のライフワークとしていつまでもスキーヤーでいたいという思いはあります。今でも「スキーって、まだこんなにいろんな景色を見せてもらえるんだ」と改めて感じることもありますね。また自然の近くで暮らしていく中で温暖化を肌で感じることもありますので、雪で育った人間としては環境問題についても何かしらの形で社会に発信していこうと考えています 。
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若手選手の育成にもご尽力されていますが、最後に上村さんから若手のアスリートの方にメッセージを頂けますでしょうか。
上村さん
色々な壁にぶつかっていくとは思うんですけど、その度に見方を少し変えたりすれば、乗り越えられないものはないと思います。いつか引退する時が来ると思うんですけど、その時に後悔のないように日々を積み重ねていって欲しいと思います。あとその競技が大好きだってことは絶対に忘れずに頑張って欲しいと思いますね。
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素晴らしいメッセージありがとうございます。今のお言葉は弁護士にも当てはまることですので私も励みになります。本日はお忙しいところ貴重なお話をありがとうございました。
(※4) 一般財団法人冬季産業再生機構「SAVE THE SNOW」プロジェクトの第1弾として作成された絵本。上村さんが生み出したキャラクター「あいこちゃん」が雪の美しさや大切さを伝えている。