関東弁護士会連合会は,関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

写真

落語家
林家たい平 師匠

とき
2025年10月15日
ところ
都内某所
インタビュアー
会報広報委員会委員 山本祐輝

今回の「関弁連がゆく」は、国民的長寿番組「笑点」のメンバーとしてもお馴染みの落語家、林家たい平師匠です。その軽妙な語り口で多くの人を笑顔にする師匠が、落語家を志したきっかけ、落語の魅力、そして現在の多岐にわたる活動等について語ってくださいました。

幼少期の頃はどんなお子さんでしたか?

林家さん 周りからは「ひょうきん者」だと言われていましたね。母親が社交的だった影響もあり、人を喜ばせたり、面白いことをしたりするのが大好きでした。
両親がテーラーを営んでいて、忙しかったので、ご近所付き合いが非常に濃密でした。夜になるとお客様が夕食に必ずいるような家で、お客様を喜ばせることが洋服の注文にもつながっていました。家族みんなで協力していたのですが、お客様がずっと笑って喜んでいると、「早く寝なさい」「勉強しなさい」とは言われないんですね。人が笑っている環境がこんなに幸せなんだということを、日々の暮らしの中で自然と学んだのかもしれません。

落語家に興味を持たれたのはいつごろからですか?

林家さん 大学3年になってからですね。もともとは熱血教師ドラマに影響を受け、中学の時は学校の先生になろうと思っていました。高校に進学したものの、勉強しなくなってしまいました。そのとき、担任の先生が美術の先生だったこともあって、美術の教師の道があるぞと言われ、美術大学に進学しました。
大学に入った頃はバブル前夜で、世の中が華やかな時代。イラストレーターやコピーライターといった横文字の仕事が脚光を浴びていて、私もデザイナーにシフトして身を立てたいと思い始めたんです。そんなとき、大学の先生から「デザインは人を幸せにするためにある」という言葉でデザインを教えられました。
どうしたら自分のデザインで人が幸せになれるか考えていた大学3年のある夜、たまたまラジオから流れてきた五代目柳家小さん師匠の『粗忽長屋』という落語に、どんどん引き込まれました。声しか聞こえないのに、こんなに笑えて、優しい気持ちになれるなんて、すごいなと。それが落語にのめり込んでいくきっかけでした。

柳家小さん師匠の落語が、デザインの言葉とシンクロしたのですね。

林家さん まさにそうです。デザインが人を幸せにするという言葉と、落語がシンクロしたんです。絵を描いたりデザインをするだけでなく、「喋る」ことで人が元気になったり、明るくなったりすることもデザインじゃないかと思い始めました。そして、「落語を使って人の心をデザインするデザイナーになりたい」と考えるようになりました。

落語家になることを決意された具体的なきっかけは何でしょうか?

林家さん 大学4年の春休み、15日間の一人旅に出ました。下駄を履き、ふんどしを締め、母の着物を男仕立てに直してもらい、風呂敷包み一つ。風呂敷には「落語一人旅」と書いて、落語を二席だけ覚えて、保養所や温泉に泊まっている人たちに聞いてもらい、この仕事が自分に向いているのか見極めようという旅でした。
最初の5日間は恥ずかしさから誰にも話しかけられず、何もできませんでした。しかし、6日目に仙台の老人ホームで落語を披露し、翌日石巻の老人ホームで落語をした時に、私の下手くそな落語でも「久しぶりに笑ったよ」と喜んでくださるたくさんの笑顔を見ることができたんです。
「この仕事は本当に素敵だ」と思い、その場で「絶対に100パーセント落語家になります。今日決意しました」と宣言しました 。石巻からの帰りの旅路は、会う人会う人に「絶対落語家になります」と言って、退路を断って、落語を目指すこととしました。

その後、大学卒業と同時に弟子入りされたのですね。

林家さん はい。林家こん平師匠に弟子入りを願い出ましたが、すぐには弟子にはなれず、まず期限のない「行儀見習い」から始まりました。僕は卒業時点で両親からの援助も蓄えもなく、アパートを借りるお金もなかったので、師匠に正直に話したところ、師匠(こん平)の師匠である初代林家三平師匠の家への住み込みを許されました。
こん平の弟子でありながら三平師匠の家で約1年間、掃除、洗濯、お使いなどの行儀見習いを続け、勤まりそうだということで、ようやく1年後に弟子入りが許されたんです。

弟子入りされてから、師匠からはどのようなことを教えてもらいましたか?

林家さん 落語の技術というよりも、一人の人間として「正直であれ」という、基本中の基本を教えてもらいました。嘘をつかず、正直であり続けなさいと。それから、人にかわいがられる芸人になりなさいということですね。落語をこうしなさいという教えよりも、人としてどうあるべきかという教えの方が多かったですね。
師匠からは「お前はちょっと真面目すぎる。『稚気(ちき)』を持ちなさい」とも言われました。稚気があると、周りのお客さんがこの子を守ってあげよう、育ててあげよう、可愛がってあげようという気持ちが芽生えてくるからと。人から好かれる芸人になりなさい、という教えでした。

落語の技術はどのように学ばれたのですか?

林家さん それはもう、他の師匠方の寄席で働きながらの耳学問です。寄席でお茶を入れながら、高座の声が漏れてくるのをちょっと聞いて、「こういうことで笑うんだ」とか、自分で少しずつ蓄えていくんです。
師匠が直接教えてくれることはほとんどないんですよ。師匠に教えられると、一語一句同じようにやりたくなってしまう。師匠は自分とは違う個性を持った落語家を育てたいので、あまり自分の弟子には稽古をつけないんです。
落語家は、他の色々な師匠方に稽古をつけてもらい、その良いところを少しずつ吸収して自分を作っていくものなんです。前座修行中は、どんな師匠に稽古をお願いしても無償で教えてくださるので、そういうことの方が多かったですね。

古典落語を演じられる際、どのようなことを意識されていますか?

林家さん 常に発信側ではなく、受信側の方に重きを置いているということです。自分が伝えたいことを伝えているかではなく、「ちゃんと自分が伝えたいことが伝わっているか」ということを確認しながらの作業の方が多いですね。
かといって、説明文が多すぎると物語の世界に入っていけなくなるので、時代設定や雰囲気を壊さずに、変えられる言葉は今の言葉に変えていくといった作業も重要だと思っています。この言葉では伝わらないなと思ったら、語彙群から新しい言葉を探したり、その言葉を使わなくても前段の会話の流れで伝わるように工夫したりと、常に聞く側に回って考えています。

たい平師匠は毎年12月に『芝浜の会』を開かれています。なぜ毎年『芝浜』(※夫婦の情愛を描いた古典落語の名作)を演じられているのですか?

林家さん 今年で29年目になります。もともと『芝浜』は人情噺で難しい話と言われていますが、「とにかく笑わせたい」という思いが強かった若い頃は、自分はやらないだろうと思っていました。
しかし、亡くなられた立川談志師匠の『芝浜』を聴いて、心を射抜かれたんです。落語でこんなに人が泣いて、温かくなれる話があるのかと衝撃を受けました。立川談志師匠に達することはできないけれど、自分がやったらどう変わるのか、やってみたいという思いが強くなり、始めたんです。
この話には、人間の良いところも悪いところもたくさん詰まっていて、夫婦の話ですが、「仕事とは何か」「お金とは何か」「夫婦とは何か」「コミュニティとは何か」というものがすべて詰まっていると思います。
年齢を重ねるごとに、去年気がつかなかったところに気がつくなど、年々『芝浜』の見え方が違ってきます。これを自分も楽しみながら、定点観測で星を見続けるのと同じように、林家たい平という落語家を見続ける楽しみは、今を一緒に生きているお客さんの楽しみでもあると思うんです。お客さんも成長しているから、去年とやりとりが違うと感じたり、ご自身の1年をそこで見つけることができる。それがすごいと感じるので続けているんです。

高座の様子

古典落語以外に新作落語といったものもありますが、新作落語はどのように作られるのですか?

林家さん 多くの古典落語がすでにありますが、「今のこのテーマを語りたいけど、それを語れる古典落語がない」ときに、新作を作ろうという気持ちになります。
テーマは、時事ネタだったり、夫婦で直面する問題や老後の問題など、すべて身近なことですね。身近なテーマを掘り下げて、みんなにも共感をもらえたり、問題提起にもなったりするようなことが最初に浮かぶと、それに関する落語が出来上がってきます。落語って、やはり身近なことがテーマなんですよ。

落語の魅力は、どのようなところにあると思われますか?

林家さん 今、科学や技術が進歩し、ネット環境で世界とつながり、AIが生まれる時代ですが、人間は本当に幸せなのかな、と思うと、そうでもない気がし始めています。SNSでは、誹謗中傷があり、ちょっと失敗した人を立ち直れなくなるくらいにみんなで言葉で攻撃するような、恐ろしい時代になってしまったと思います。
人間が一番幸せに生きていた時代はいつだろうと考えた時、私は「落語国の時代」の人たちだと思うんです。長屋に住んでいる人たちは、貧乏で豊かではないし、喧嘩もあるけれど、すごく人間らしく生きていたんじゃないかなと。地球の裏側の人が何を考えているか知るよりも、隣の人が何を考えているか、どんな夫婦関係なのか、そっちの方がよっぽど大切だと思います。
そういうことを教えてくれるのが、落語の魅力なんですね。「ああ、やっぱりこのぐらいでいいんじゃないかな」と思わせてくれる、人間が幸せに生きている「程の良い」時代が、落語の世界にはある。今の若い人たちが落語にハマるのは、SNS疲れなど、そういうところから安らぎを見つけているのかもしれません。

だからこそ先ほどの新作落語のテーマの見つけ方のように、身近なテーマを落語にして伝えているんですね。

林家さん そうですね。落語の世界は、多様性なんて大上段に振りかぶらないで、とうの昔から多様性なんです。馬鹿の与太郎(落語にしばしば登場する間抜けな失敗を繰り返し周りから馬鹿にされてしまう人物)のような人でも排除せずに、一緒に遊びに連れていく。自然とこうやって助け合いながら、みんなで生きて、その日が楽しくバカバカしかった、楽しかったって言って生きていくことが、どれほど幸せなのか、と。生きていることが幸せだという「幸せって何だろう」というのを考えさせてくれるきっかけに、落語はなるんじゃないかなと思っています。

たい平師匠は落語だけでなく、国民的長寿番組である「笑点」に出演されています。出演されることになった経緯を教えてください。

林家さん 師匠のこん平が病に倒れ、代打で座らなければいけないというときに、「若手大喜利」という企画がありまして、番組で若手の中で座布団が一番多かった人が座る、ということになったんですね。それで、こん平師匠の代わりに私が座ることになりました。

初めて参加された時の心境はいかがでしたか?

林家さん 「笑点」は師匠こん平の仕事だと思っていましたから、まさか自分が師匠の着ていたオレンジ色の着物を着てあの場所に座っていることが信じられませんでした。最初の挨拶で「たい平です」と言ったつもりが、「こん平です」と言ってしまい、すかさず当時の楽太郎師匠に「お前もう師匠の名前取ろうとしてるな」と突っ込まれて、心が少し軽くなったのを覚えています。

どのように笑点の場に馴染んでいきましたか?

林家さん 師匠の後にああいう形で入ったので、「テレビで毎週つまらない」と烙印を押されたら、今まで築いてきた自分の落語や世界観が崩れていってしまうという恐ろしさがありました。師匠にも申し訳ないという思いもあり、最初の頃はニコニコしてはいましたが、すごいプレッシャーがかかっていました。
周りの先輩方は個性的なので、自分にそういう個性がなく、どうやって自分を出していったらいいんだろうと本当に悩みました。その中で、若さを生かし、「秩父生まれのたい平です」という師匠譲りのふるさとを愛する心から始まり、とにかく若いので動き回ろう、他の師匠たちにできないことを探して、少しずつ自分の居場所を見つけ出す、ということをしました。隣に飛んだりする動きも、若いからできることは何だろうと考えて始めたことです。

「笑点」の場で意識されていることはありますか?

林家さん 人を傷つける笑いであってはならない、ということです。子供からお年寄りまで見ていますので、誰も傷つけない笑いって何だろう、というのを僕の中ではテーマにしています。
全然似ていないモノマネをしたり、自分で「そっくりだ」と言い張ってみたり。すっとぼけたナンセンスの「馬鹿だね」というところで、誰も人を傷つけない笑いができたらいいなというのをずっと考えています。

落語や「笑点」以外ではどういった活動をされていますか?

林家さん 今は長崎の波佐見焼の染め付けをしたりしています。それが波佐見町の皆さんに喜ばれ、今は波佐見町のふるさと大使にもしていただいています。また、絵を描いたり、歌も歌っています。私のテーマは「人生の中でせっかく生きてきたからには楽しまなきゃ」なんです。師匠からは「器用貧乏になるから気をつけなさい」と言われましたが、色々なことをやって、最終的に「貧乏だった」と笑える方が楽しいなぁと。やらないで終わって後悔するよりも、できることは何でもやってみたいんです。

染め付けした波佐見焼の作品

息子さんの林家咲太朗さんが、2019年3月にたい平師匠に弟子入りしました。落語家になりたいと言われた時、どう思われましたか?

林家さん いやもう、本当にまさかの展開でした。落語家になるなんて全く考えていることに気がつきませんでしたし、戸惑いましたね。
私自身、落語家の道を自ら選んで進んで来たわけですから、子供たちにもダメということは絶対言わないようにしようと思っていました。大変な仕事だよ、という話はしましたが、それでもなりたいと言ったので認めました。

師匠であり、父でもあるという関係性をどのように築いていかれたのですか?

林家さん 葛藤はありました。反対はしなかったものの、入ったからには頑張ってほしいので、最初はちょっと厳しくしすぎたというか。二代目だからと言われないように、厳しくして周りから言わせないようにしたいと思ってしまったんですね。
でも、途中で「違うな」と思って軌道修正しました。今はそんなに厳しくすることはやめています。昔はまだ大人になる前の年齢で弟子入りしていたから、大人になっていく教育も師匠の役割でしたが、今は大学を卒業したり社会人を経験したりしたちゃんとした人格を持った大人が弟子に来ることが多いので、それは必要ないのかなと。

咲太朗さんにはどんなことを期待していますか?

林家さん 彼の今の落語を見ていると、とにかく笑わせたい、人を喜ばせたいという思いがすごく強い。その思いをしっかり持ちながら、「落語家になってよかった」と最後思ってくれる、そういう落語家であってほしいなというところですね。

最後に今後の目標についてお聞かせください。

林家さん 落語家になった時、「こんなに面白いものがまだ世の中に知られてない」という風に思っていました。落語を知るきっかけ作りをするのが自分の使命だと思っています。
これからもずっと、初めて落語に接する人たちのための落語家であり続けたい。難しいとか言葉がわからないじゃなくて、何も考えずに、子供から大人までが大声出して笑える。そして、「そういえば落語を聴くようになった最初のきっかけは林家たい平さんだったね」と言われるぐらいでいいかな、という。それはもう、これからも死ぬまで自分の命題としてやっていきたいですね。

私も落語を聞くきっかけがたい平師匠になりました。(笑)
本日はありがとうございました。

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