
従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。
元サッカー日本代表、スポーツジャーナリスト
前園 真聖さん
今回の「関弁連がゆく」は、元サッカー日本代表で、スポーツジャーナリストの前園真聖さんです。アトランタ五輪(1996年)では主将として日本を28年ぶりの五輪出場に導き、ブラジルを破る「マイアミの奇跡」の立役者になるなど大活躍されました。今回のインタビューでは、アトランタ五輪での激闘、困難からの復活や2026年W杯への展望など様々なお話を伺いました。
― サッカーはどういうきっかけで始められたのですか。
前園さん 4つ上の兄が地元の少年団でサッカーをしていたので物心ついた時から一緒にボールを蹴って遊んでいました。当時はJリーグもなくて、テレビでサッカーを見る機会もほとんどなかったんですが、地元にサッカー専門のスポーツショップがあって、ビデオで海外の試合をずっと流していたんです。夢中で見ましたが特に好きな選手がマラドーナでした。一人で何人も抜いていく姿がかっこよくて、「キャプテン翼」のようなプレーを実際にやれる選手がいるんだと衝撃を受けましたね。それからはマラドーナに憧れてドリブルの練習に明け暮れました。
― 前園さんのドリブラーとしての原点はマラドーナなんですね!さて高校は鹿児島実業に進学されましたが、名将松澤隆司監督のもと、前園さんの他にも城彰二さん、遠藤保仁さん、松井大輔さんら数多くの名選手を輩出した日本屈指の強豪校です。監督の指導で印象に残っていることはありますか。
前園さん 練習も指導も厳しかったですが、選手の個性を修正するのではなくて、個性を認めて良いところを伸ばしてくれる監督でした。僕が武器にしていたドリブルも認めて伸ばしていただいたので凄く自分には合っていたと思います。松澤監督に巡り合えたことが、その後プロになれたことに繋がったと思いますね。
― 高校卒業後に横浜フリューゲルスに入団され、その後U23日本代表の主将としてアトランタ五輪に出場されています。まず主将になった経緯を教えてください。
前園さん 自分は主将に向いてないと思っていたので後にも先にも主将をやったのはあの時だけです。でも西野監督は僕を主将にすることでチームをもう一段引き上げたかったようで、半ば強引に任命されました(笑)。幸い周りにキャプテンシーのある選手が沢山いましたので助けてもらいながらやることができましたね。
― 中田英寿さんも同じ代表チームでしたが当時の印象はいかがでしたか。
前園さん 彼は一つ下の世代から入ってきた選手なんですがユース代表で世界を経験していたので、若いけど堂々としていましたね。代表では彼と同部屋だったんですが、僕の洋服まで畳んでくれたりして、凄くしっかりしていました(笑)。当時、彼は高校を卒業したばかりで、まだ10代だったと思いますが、将来はイタリアでプレーしたいと言ってイタリア語を勉強していました。明確な目標を持って努力している姿が印象に残っていますね。
― アトランタ五輪代表では「マイアミの奇跡」が話題になることが多いですが、私が感動したのは28年ぶりの五輪出場を決めた予選のサウジアラビア戦です。前園さんが2得点されてプレーもキレキレで神がかっていました。
前園さん メキシコ五輪(1968年)以来28年ぶりの出場がかかっているという重圧の中で負ければ終わりという厳しい状況でした。「ここを落としたら五輪はない」というのがチーム全員の思いで、コーチングスタッフも含めて全員が集中してあの試合に臨みました。本当に難しい試合でピンチも沢山ありましたが、その中でも全員が気持ちを一つにして、最後まで戦い抜いたことが結果につながったと思います。僕自身2得点を取りましたが、チーム全員が準備をしてしっかりパフォーマンスできた結果だと思います。僕としてはサッカー人生を通じて、一番いいパフォーマンスができた試合かなとは思いますね。
― そして五輪本選でのブラジル戦の勝利、いわゆる「マイアミの奇跡」ですが、振り返っていかがですか。
前園さん ブラジルはスター選手ばかりでしたが、僕らは海外でプレーした選手もいませんでしたので、完全にチャレンジャーでした。でもJリーグでW杯優勝経験のある外国人選手と一緒にプレーしてきたという自信もありましたし、若さもあって「やってやろうぜ」という強い気持ちがありました。ゲームプランとしては押し込まれても全員で辛抱して、奪ったら手数をかけずシンプルに相手ディフェンスラインの背後を突こうと考えていましたが、得点のシーンはまさにその狙い通りでした。あとスタジアムの雰囲気も大きかったですね。最初は皆ブラジルを応援していて、アウェーのような雰囲気だったんですが、前半0対0で折り返すと徐々に日本の応援が増えて来ました。ブラジルが焦り始めたのを試合の中でも感じましたし、自分たちも「もしかすると何か起こるんじゃないか」と思っていましたね。
― 次戦のナイジェリアには敗れ、3戦目のハンガリー戦に勝って2勝1敗という成績でしたが得失点差で決勝トーナメントには進めませんでした。
前園さん 結果的にグループリーグを突破できなかったことが全てだと思います。2勝しましたけど実際のピッチでは、スピードも技術も世界で活躍している選手たちとの差を痛感して、世界で戦わないと自分も成長できないし、日本サッカーも上にはいけないだろうなと思いました。自分も世界に出ていきたいという思いを強くした大会でもありました。
― 前園さんは五輪後に海外移籍を目指されましたが、上手くいかず苦しい時期もあったと伺っています。
前園さん 海外への強い思いがあったんですが、当時はエージェントもいない時代で交渉がうまくいかず、結局ヴェルディ川崎(当時)に拾っていただきました。ただ、公に海外移籍を明言していた中での加入だったので、チームの選手たちもいい気持ちではなかったと思いますし、自分自身も気持ちを整理できないままでした。メディアからも叩かれて、サッカーが楽しくない時期がありましたね。
― その後ブラジルやヨーロッパにも渡られましたが、苦しい時期が続いたそうですね。
前園さん ヴェルディで上手くいかない中で、Jリーグの監督をされて後にブラジル代表監督まで務めたレオン監督から声をかけていただいて、1998年にブラジルに渡りました。先ほど「サッカーが楽しくなかった」という話をしましたけど、ブラジルで1から挑戦していく中でサッカーへの情熱が蘇ってきたんです。その後、ブラジルのチームとの契約が終わって、ヨーロッパのチームとの契約を目指して、ポルトガルやギリシャのクラブを渡り歩いてテスト生のような形で4か月ほど過ごしたんですが、中々チームが決まりませんでした。それからJリーグから声をかけてもらって、日本に戻ったんですが、チームに所属してない時は不安でやっぱり苦しかったです。でも「この苦しい経験が後に糧になるはずだ」と自分に言い聞かせて、出来る限りのことはしました。
― 湘南ベルマーレを経て2001年にヴェルディに復帰されましたが、最初のヴェルディ時代と心境の変化はありましたか。
前園さん その時のヴェルディは川崎から東京に移転して、「東京ヴェルディ1969」と名前も変わって、全く違うチームになっていました。Jリーグで1からやっていこうと覚悟で決めて臨みました。
― ヴェルディではゴールを決めた試合で左足骨折という大怪我もご経験されました。
前園さん 復帰後もレギュラーではなかったんですが、その試合は当日に急遽スタメンに入ることになって「チャンスを掴もう」と気持ちが入りすぎていたのかもしれません。ゴールは決めましたが、その代償として初めての骨折をしてしまって、それがヴェルディでの最後の試合になりました。でも不思議と吹っ切れた感覚があって、「もう1回、1から自分でやっていこう」とポジティブに気持ちを切り替えられましたね。
― その後、韓国への移籍を経て2005年に現役を引退されています。海外でのプレー経験も多いですが、そこから学ばれたことはありますか。
前園さん 日本だとサポートしてくれる人がたくさんいますけど、海外では自分から一歩踏み出さないと認めてもらえないし、監督にも積極的にコミュニケーションを取っていかないと伝わらないんですね。大変なことの方が多かったですけど、だからこそ「じゃあどうすればいいか」ということを考えるようになりましたし、メンタル的にすごく鍛えられました。それはサッカーだけでなく、引退後の人生にも役立っていると思いますね。
― 色々とご苦労もあったと思いますが現役時代を振り返られていかがですか。
前園さん 僕はプレイヤーとしての実績は全くないんですよ(笑)。引退するまで色々なチームでプレーしましたけど、アトランタ五輪でブラジルに勝ったことが一番大きな実績で、W杯にも出場できませんでしたし、苦しい時期や上手くいかなかった時期も多くて、思い描いていた理想の現役生活ではありませんでした。でもそれも自分ですし、サッカー人生だと思っています。そういう中で引退後にサッカーに携わる仕事をさせていただいているのは凄く幸せだと思いますね。
― とんでもないです。今でも前園さんのプレーは記憶に残っていますし、間違いなく日本サッカー史に残る名選手です。アトランタ五輪以降、日本は五輪とW杯に全て出場していますが、今の日本代表があるのも前園さんが世界への扉を開けてくださったお陰ですので、心から感謝しています。
前園さん そう言っていただけると嬉しいですね(笑)。
― さて2026年6月にW杯が開催されますが、今の日本代表の強さをどのように評価されていますか。
前園さん
今の代表はスタメンだけでなく2~3チーム作れるぐらいの選手層の厚さがあって、しかも全員が各クラブの主力として試合に出ていて、誰が出てもレベルが落ちないところが最大の強みですね。今大会は出場チーム数がこれまでの32から48に増えて試合数も増えますから、ターンオーバー(※1)しながらレベルを保てるのは有利ですし、今まで以上に期待できるチームだと思います。
(※1) 選手の疲労回復や怪我を防止するために試合に応じてチームの先発メンバーを大きく入れ替えること
― 日本が入ったグループFはオランダ、チュニジアで、もう1チームは欧州プレイオフを勝ち抜いたチームで現時点ではまだ決まっていません。この組を勝ち抜くためのポイントはどこでしょうか。
前園さん 強豪ぞろいのグループですが、やはり1番のポイントは初戦のオランダ戦ですね。これまでも日本は初戦を落とした大会では上がれていないので、初戦で勝つか最低でも勝点1を取れるかが鍵だと思います。前回は相手がボールを持ってくるから分かりやすく戦えたんですけど、今回は世界から「日本は強い」と見られているので、相手が警戒して守りを固めてくると、やりにくくなると思います。ボールを持たされて押し込んでいる時にカウンターでやられるという今までの逆のパターンもあり得ますし、オランダはそういう戦い方もできるチームなんです。その辺りの駆け引きも含めて、初戦の戦い方がすごく重要になってくると思います。
― 日本はこれまで4度決勝トーナメントに進んでいますが、いずれもベスト16止まりです。ベスト8以上に勝ち上がるためには何が必要でしょうか。
前園さん グループリーグで全てを使い果たしてしまっては決勝トーナメントで勝てませんのでターンオーバーしながらチームをうまく組み立てて、余力を持ってベスト8をかけた試合に臨むことが大事だと思います。あとは力だけでなく、チャンスを確実にものにする勝負強さや、流れを自分たちに引き寄せる力が必要ですね。僕らがアトランタでブラジルに勝った時のようにスタジアムの空気感まで変えていくような、全てが揃わないとベスト8にはいけないと思います。今回は一番その確率が高いチームなので信じたいですね。
― W杯を楽しみにしております。さて話がガラリと変わりますが、2013年にお酒でのトラブルがありました。当時のお話を伺ってもよろしいでしょうか。
前園さん もちろん聞いていただいて大丈夫です(笑)。当時は自分がやったことの重大さ、周りの方々にかけた迷惑の大きさを痛感していました。こういうことが起きると去っていく人も多いのですが、一番大変な時に手を差し伸べてくれたのはサッカーの仲間でした。例えばラモスさんは僕の代わりにすぐ仕事先に駆けつけてくれたりして、本当にありがたかったです。自分が大変な時にも声をかけて、支えてくれる人がいるということに気づかされて、だからこそもう一回ちゃんとやらなきゃいけないと心の底から思いましたね。
― そうやって支えてくれる人がいたのも前園さんのお人柄やご人徳があってのことだと思います。さて、過去のインタビューでは、将来の目標について「目の前の仕事に100%向き合いたい」とお答えになったのが印象に残っています。そのようにお考えになったのはどうしてでしょうか。
前園さん あの事件の後、誰からも信頼されなくなり、仕事が全てなくなって、今まで当たり前だったと思っていたことが、当たり前ではなかったことを思い知りました。皆さんに大変なご迷惑をおかけして、「もう1回皆さんに認めてもらって、恩返しをしたい」と思いましたが、そのためには、与えられたことを1つ1つしっかりやって、信頼を積み重ねていくことが大切だと思いました。現役の時は五輪やW杯という先の大きな目標を掲げていましたが、今は、今日やるべきこと、できることを全力でやっていくのを目標にしていますし、それが次に繋がっていくと思っています。
― 色々な困難を乗り越えられて、今の前園さんの素晴らしいご活躍があると思いますが、今困難に直面している方に向けてメッセージをいただけますか。
前園さん 誰でも多かれ少なかれ失敗や上手くいかない時があると思うんですが、その時に誰かのせいにすると楽かもしれませんが、辛くても自分で受け止めて、自分を見つめ直して、改善していくことが大事だと思います。失敗をなかったことにするんじゃなくて、それも自分の人生ですし、経験だと思って、前を向いて欲しいですね。ずっと上手くいかないということはないですし、前を向いて歩いていればまた良いこともありますので、そういう気持ちで頑張っていただきたいですし、自分も一緒に頑張っていきたいと思いますね。
― 今のお言葉は私も大変励みになります。本日はお忙しいところ貴重なお話をありがとうございました。