関東弁護士会連合会は、関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

写真

元第十一代伊勢ノ海
森田武雄さん

とき
平成24年6月29日
ところ
東京都中央区
インタビュアー
会報広報委員会副委員長 西岡毅

 今回の「わたし」は,元伊勢ノ海部屋親方の元第十一代伊勢ノ海,森田武雄さんです。大相撲の現役時代は,殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞をとる活躍をされ,同部屋の横綱柏戸関の土俵入りの太刀持ちの役も務められました。最高位は関脇。現役引退後は,昭和57年から伊勢ノ海部屋の親方を承継され,平成14年から同22年までは相撲協会の理事を務められました。現役時代から理事者時代まで,幅広く語っていただきました。

まずは,幼少の頃についてお聞きしたいのですが,幼少の頃から力士を目指されていたのでしょうか。

森田さん いや,そういうわけじゃないですね。子どもの頃は,スポーツは何でもやっていましたよ。私は北海道出身なんだけど,夏は屋外で野球をやって,冬は屋内で柔道やスケートまでやっていましたから。相撲については,当時,テレビもあまり普及していなかったから,タバコ屋の街頭テレビで見たり,あとはラジオ放送を聞いていたぐらいでしたね。丁度,栃錦関と若乃花関が活躍した栃若時代から,柏戸関と大鵬関の柏鵬時代へ移る頃だったから,大相撲は盛り上がっていましたが。

では,どのようなきっかけで入門することになったのでしょうか。

森田さん 8つ上の兄貴が拓殖大学で柔道をやっていたんですが,当時,拓殖大学は相撲が強かったんです。それで,相撲部の監督が兄貴を相撲界へ勧誘してきて,「ちゃんこ食べよう」って連れていかれたんですよ(笑)。でも,兄貴は相撲の大会に一度出たら,顔を擦りむいてしまって,相撲は性に合わないと言って,相撲のスカウトを断ってしまいました。でも,ちゃんこをご馳走になってるから悪いと思ったのか(笑),北海道に弟がいるって説明して,それで私のところに話が回って来たんです。

北海道までスカウトが来たんですか。

森田さん  そう,伊勢ノ海部屋の親方が,わざわざ北海道までやって来ました。丁度,伊勢ノ海部屋の柏戸関が初優勝して,エールフランスの招待で渡欧していて,その間にね。でも,親方はスカウトに来たのに,くだくだ言わないんですよ。「2~3日,近所の温泉に泊まってる。また来るから。」とだけ。

そのとき,森田さんはまだ学生だったんですよね。

森田さん 私が中学2年生の時ですよ。私は,5人兄弟の末っ子だったんだけど,実家は商売をやっていて,長男が跡継ぎ。私は三男坊で,ずっとここにいるわけにはいかない,ゆくゆくは家を出ないといけないと思っていました。そういう折にこのスカウトの話が来たんです。これは自分に何かが起きているのかもしれない,きっかけが来たのかな,道が来たのかなと。

ご家族は賛成してくれていましたか。

森田さん お袋は泣いて反対しましたね。お袋は,相撲界で挫折して帰って来た人を何人か見ていましたからね。

では,大変な覚悟で入門を決意されたんですね。

森田さん 中学2年生の終わりに上京したんだけど,故郷から出るときは戻ってこない覚悟でしたね。でも,「目指せ,大関・横綱」というわけでもなくて,よし,運命に流されよう,これがそうなのかなと。それで,中学3年からは,伊勢ノ海部屋から東京の両国中学校へ通学しました。今は,義務教育を修了しないと入門できないけど,当時はそういう決まりはなくて,中学3年生の私は部屋に力士として採用されたんですよ。

入門して新弟子の頃の下積時代は,色々と大変だったのではないでしょうか。

森田さん そんなにつらかった覚えはないですね。当時,柏鵬時代の到来でどんどん新弟子が入って来たので,私自身は,そんなに下積みはしなかったんです。ついてましたね(笑)。そう言えば,スカウトのときに,「うちの相撲部屋にはテレビがあるし,洗濯機もあるよ。」と説明されていて,行ってみたら確かにテレビも洗濯機もありました。北海道にいた頃は,タライと洗濯板で洗濯していたので,洗濯機は助かりましたね(笑)。

入門されてしばらくは学校にも通われていたわけですから,稽古は大変だったのではないでしょうか。

森田さん 入門当初,平日は中学に通っていたから,そんなに無理な稽古はありません。朝稽古で,四股と鉄砲という基本をやって,あとは土日にしっかり稽古をやっていました。私の場合,中学卒業後も師匠命令で高校に行かせてもらいました。普通は勉強が嫌だから高校に行かない者が多いんですが,お袋が入門に際して高校卒業を条件にしていたんです。

学業と相撲の両立は大変だったのではないですか。

森田さん でも,掃除を免除されたり特別待遇を受けていましたからね。場所が終わると1週間の休みもあったので結構暇な時間もあったんです。まぁ,あんまり暇だとろくなことがない(笑)。稽古が終わった後は,まず風呂に入って兄弟子の背中を流して,その後はちゃんこを用意してお給仕をするので,自分が食べるのは最後。でも,1日2食,ちゃんとおかずも食べられました。そんなに品数はありませんでしたが。

力士の方々は体が大きいのでお酒も随分飲まれるんですか。

森田さん 力士とはいっても酒量についてはピンからキリまでですね。飲める人は桁外れに飲めるけど,自分はそんなには飲まないですね。

実際に入門されてみて,兄弟子達にすぐに太刀打ちできたのでしょうか。

森田さん それが兄弟子達を押してもびくともしないんです。全然動かない。兄弟子達は,私が部屋に入ったとき,「かわいそうに,一週間もすれば逃げていなくなるだろう。」と思ったらしいです(笑)。でも,こっちは,故郷に戻らない覚悟で来ているし,それに戻り方も分からなかったので(笑),部屋に残って相撲をやるしかない。

入門後はどのような経過で番付に載ったんですか。

森田さん まず番付に載るための前相撲が昭和36年の5月場所でした。当時の前相撲は,今と違って2連勝して星が1つで,4回の連勝が必要だったから8勝しないと序の口に上がれない制度。だから今よりも時間がかかること多くて,前相撲から上がれない人も沢山いましたよ。自分は,次の名古屋場所には序の口に上がることができました。

力士としては,どのような目標をお持ちだったんですか。

森田さん 私の部屋には横綱の柏戸関がいたんですが,当時,うちの部屋に他に幕内力士がいなかったため,横綱の土俵入りのときの露払い,太刀持ちをよその部屋から借りて来ていたんですよ(*横綱土俵入りは,露払いと太刀持ちの力士2名を従えて行う。この役は,通常は,横綱と同部屋で,関脇以下の幕内力士が務めることになっている。)。これは,同じ部屋の一員として恥ずかしい思いでしたから,部屋のために,横綱のために,まずは露払い,太刀持ちになれるようにと頑張りました。幕内になってしばらく,太刀持ちをさせていただきました。

印象に残っている取組みについて教えて下さい。

森田さん やはり横綱との対戦での金星(*前頭の地位で横綱に勝利すること)ですね。横綱というのは,こちらが押しても引いても格が違う。その横綱に勝ったときは,「横綱が本当に負けたの?」という感じでしたね。

やはり番付が違うと相撲が違っているものなんですか。

森田さん 番付の一番の違いは,立ち合いの当たりだと思います。三段目になると違うし,幕下も上位は違います。立ち合いの当たりの鋭さ,強さは相撲を取った本人が一番分かります。

相撲は立ち合いの当たりが重要なんですね。

森田さん 強くて鋭い当たりを早く経験する必要があると思います。そうすると,次の稽古への目標ができる。結びの一番で強い人と対戦することで,自分の力が分かると稽古が変わってくるものなんです。

相撲の技で印象的なものの一つに張り手があると思うのですが,張り手はどのようなときに使う技なんですか。

森田さん 相手の動きを止めるためにぽんと入れるとか。感情的な張り手は良くないと思いますね。当時は,濡らしたテーピングで張り手をするといったこともありましたが,これは危険です。今は張り手について厳しくなっています。張り手という決まり手はないし,ボクシングのような感覚で見られるのは良くないと思います。

相撲の技で押し出しより豪快な投げの方が観戦していて盛り上がってしまいますが,押しと投げではどちらが基本なのでしょうか。

森田さん 相撲の基本は押すことだと思いますよ。「押さば押せ,引かば押せ」と言いいましてね。投げもあるけど,押して体勢を崩したときに投げるわけであって,投げも押しから生まれてくるものなんですよ。

相撲の技で,引いてはたいて勝つこともあると思うんですが,そういう勝ち方はどうなんでしょうか。

森田さん 引きはたきは絶対負けにつながるので良くないと思いますね。引いてはたいて勝つと,それが体に染み込んで,体が覚えてしまいます。

小手先でうまくいっても,その後がうまくいかないということですか。

森田さん そうですね。基本を思い起こしてやらないといけないのに,体は楽をしようとしてしまうので,やはり良くない。例えば,初日に小手先で勝ってしまうと,その後の場所では調子を落としてしまうことがあります。

本場所での取組みにおいては,どのようなことを心がけるものなんでしょうか。

森田さん どうしても調子には波があるので,場所前にいくら評論家から調子がいいと言われても,本場所のときにこそ最高の調子で臨まなければいけません。本場所は15日ありますので,特に序盤は自分の立ち会いを心がけることです。勿論,先場所の対戦でこうして負けたから今回はどういこうかというのも考えますけど,自分の相撲はなかなか変えられないですから。

相撲の判定で微妙なときはどのように判定がなされるんですか。

森田さん ある誤審がきっかけでビデオを参考に取り入れたんです。プロのスポーツの中で一番早いと思います。ただ,相撲は土俵が円なのであらゆる角度からビデオを設置することは難しい。そのため,ビデオは判定の参考にしているだけです。同体の場合でも(*力士が同時に土俵を割ったり,倒れたりすること),行事は必ずどちらかに軍配を上げなければならないことになっています。その場合は,物言いをつけて取り直すことが多いですね。

親方になって責任者として指導する立場になると,現役時代と比べて別の考え方をするというか,意識の差はあるんでしょうか。

森田さん 先代の伊勢ノ海から11代目の自分の代になったとき,私も若かったから,自分なりの指導方法というか,近代的なトレーニング方法にしようと思ったんですよ。バーベルとか入れて,ウエイトトレーニングの指導者に来てもらったりね。でも,バーベルで肩に筋力つけるといったのは違うなと。相撲に必要ないとまでは言いませんが,やっぱり伝統的に昔からやっている四股が大切だと思いました。四股を正式に踏むのは難しいものなんですよ。足の親指1か所で全体重を支えるわけですから。

稽古の内容や方針は親方がご自分で決めるものなんですか。

森田さん 10代目からのものを引き継いでいますが,アマチュアの稽古方法でも,良いと思ったものは取り入れることもあります。あくまで四股と鉄砲が基本ですが。

相撲における稽古のひとつにぶつかり稽古があると思いますが,ぶつかり稽古はどのような意味のある稽古なんですか。

森田さん ぶつかり稽古は,野球界の1000本ノックのような,考えでなく体が反射的に動くというまで追い込むという稽古。転がされて,腹に力をあげて起き上がり,また転がされて,の繰り返しで,泡をふくほどの激しさです。でも,最後に腹に力を込めて起き上がるときに力がつく。柔道などの他の競技でもそうだろうけど,そこまで追い込むことが重要なんだと思います。

司法の世界は最近不祥事続きで,国民の信頼回復に努めています。森田さんが相撲協会の理事をされていたのは,八百長問題等の不祥事が騒がれた大変な時期だったと思います。当時,不祥事に対して,理事の立場でどのような対応をされたのでしょうか。

森田さん 考えられなかったことが起きてしまいました。「起きてしまったことは仕方ない。再発防止に取り組むしかない。」と思って対応しました。特別委員会を作って外部の先生方に来てもらったりもしていたんですが,想定できないことが起きたわけです。「想定外の想定」が足りなかったということでしょう。「悪いことは悪い,どこで誰が見てるかわからない。」という当たり前の注意を書いた冊子を作ったりもしました。

2011年に理事を引退されましたが,今後のご予定は?

森田さん 角界との直接の関わりはないんですが,相撲健康体操というのがあって,そのDVDを出しているんです。高齢者向けの体操で,これをもっと本格的に広めて行きたいと思っています。あとは日本人の力士をスカウトしたいというのがあります。やはり日本人の横綱を作ることが相撲界を盛り上げることになると思いますので。

本日はどうもありがとうございました。

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