関東弁護士会連合会は、関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

写真

女優
斉藤とも子さん

とき
平成25年4月27日
ところ
京王プラザホテル(新宿区)
インタビュアー
会報広報委員会委員長 西岡毅
同委員 村山志穂

 今回の「わたし」は,女優の斉藤とも子さんです。斉藤さんは,16歳のデビュー以来,NHK教育テレビ『マイブック』で注目を集め,以後,映画『ひめゆりの塔』ほか多数の映画・テレビ・舞台などでご活躍されています。そんな斉藤さんに,幼少の頃から今までの様々なお話を伺ってまいりました。

16歳で女優になられたきっかけを教えて下さい。

斉藤さん 小学6年生の頃に母を癌で亡くし,当時日本テレビの『微笑』という自分と同じ境遇のドラマを見て,すごく励まされる経験をしました。それで,人の心を元気に出来ると思い,女優になろうと決めました。また,当時郷ひろみさんの大ファンで,芸能界に入ったら郷さんに会えるのではという期待もありました(笑)。それまで出身の神戸に住んでいましたが,医師の父の転勤のため,中学3年生の春に東京へ移り住み,その後デビューしました。

郷さんには会えましたか(笑)。

斉藤さん デビュー後,エレベーターの中の至近距離で実際にお会い出来たのですが,お会いできたことで満足してしまいました。やっぱり夢は叶うまでがいいのかなあ・・(笑)。

神戸から東京に出て来られて,女優のお仕事も始められて,ご自身が大分変わられたんじゃないですか。

斉藤さん 自分が変わるというより,周りが変わっていきました。学園ドラマでは優等生の役が多かったので,そういう目で見られ,本当の自分とのギャップに悩みました。また,自分の知らない人が自分を知っているというのも不思議な感覚でした。

これまで多数の作品に出演されていますが,特に印象に残っている作品をいくつか挙げていただけますか。

斉藤さん NHKドラマの『男たちの旅路―車輪の一歩』という,車椅子の若者たちを描いた作品が印象に残っています。撮影に際して実際の車椅子の方にお会いしたのですが,すごく明るくて,何でも意欲的に話す方だったので,素晴らしいと思いました。演じる際は,車椅子に乗ったのですが,すごく重くてびっくりしました。まっすぐ動かすのも大変です。役作りでは,精一杯その人の気持ちになろうとしますが,演じているときよりも,演じたその後の生活の方が変化が大きいんです。例えば,その作品に出演した後は,車椅子の方を外で見かけると,その人の身になって考えるようになりました。

その他の作品ではいかがですか。

斉藤さん 17歳から20歳にかけて出演した『マイブック』(NHK教育テレビ)も印象に残っています。色々な作家の方にお会いして,その人が人生で出会った作品について聴く番組なのですが,黒澤明監督や大江健三郎さんなど,30人くらいにお会いしました。著名な方ばかりで,勉強するのが大変でした。でも,この番組で,井上ひさしさんと出会ったのがきっかけで,その後井上さんの舞台『父と暮せば』で被爆した娘の役を演じたり,また,灰谷健次郎さんとは,同じ神戸出身ということで,その後もいろいろお世話になりました。

弁護士業界もそうなんですが,女優業というのも,人と人の出会いが大切なんですね。女優業以外では,30代の時に東洋大学社会福祉学科に進学され,社会福祉士の資格を取得されていますが,どのようなきっかけですか。

斉藤さん ある番組に出演したのがきっかけです。26歳で結婚してからは神戸に住んでいたのですが,阪神大震災があって,その直後にTV番組でタイの山岳民族の方を取材するドキュメンタリーに出演しました。私たちは,震災に遭って,電気・ガス・水道がなくパニックになっている中,山岳民族の人たちは,まさに自給自足で自分たちの暮らしを自分で支えられる人たちでした。そんなタイの人たちの生きる強さを感じて,タイの人は人として美しいな,どっちが人間らしいのだろうか等と色々思いました。その取材のときに,タイの子ども達が,夜集まって自家発電の中で勉強し,将来は医師になりたいなどと言っているのを見て,それまで,私は,高校2年生の時に優等生と言われるのが嫌で高校を中退しており,勉強というと机上だけのものというイメージがありましたが,その時,生きていくための本当の勉強をしたいと思うようになりました。

それで大学へ進学されたんですね。社会福祉学科を選ばれたのはどのような理由からでしょうか。

斉藤さん 社会福祉学科を選んだのは,母が亡くなった時に,身近なお年寄りにいろいろと助けてもらったのに,恩返しが出来ないままで後悔があったので,これから出会う高齢者の方々に何か少しでも役に立ちたいという思いがあったからです。

大学の卒業論文では,被爆者の女性の生活史を書かれたということですが,なぜそのテーマを選んだのですか。

斉藤さん 3浪してやっと合格した大学入学の時に,舞台『父と暮せば』で被爆した女性の役を演じることになりました。それまで原爆は悲惨なイメージで近づけなかったのですが,演じるにあたり,それではいけないと1人で広島に行きました。そこで,偶然入ったお好み焼き屋さんで,思いもかけず被爆者の女性と出会いました。自分の思っていた被爆者のイメージとは全然違う,明るく強くて元気な方でした。当時,私は自分に自信を失っていたときで,どうやったら苦しみの中を生き抜いていけるのか,その方の生き方から学んだ気がしました。ある被爆者の方の「明るい被爆者もおるんよ。」という言葉はとても印象的でしたね。
  その後,様々な被爆者の方と出会い,当時学んでいた高齢者福祉と重なり,最初は,被爆者の方々の生活史をお聴きすることに躊躇いもありましたが,ゼミの先生に勧められて生活史調査をはじめました。そして,広島で知り合った3名の方からのお話をまとめました。その方々は,それまでは被爆体験を話してこなかったけれど,私と話をするうちに,自分の体験を次の世代に伝えて欲しいと思うようになったと言って下さいました。

壮絶な経験をされた被爆者の方からの聴き取り作業は大変ではなかったですか。

斉藤さん 被爆者の方は,本当に聴きたがっている人には話してくれるのだと思います。絶対に2度と同じことを繰り返してはいけないということを誰かに伝えようとしてくれている,例えて言えば,次の世代に託していくバトンを渡されたという感じでしょうか。

大学卒業後,東洋大学大学院にも進学されたということで,当時2人のお子さんの育児と学業との両立は大変だったのではないですか?

斉藤さん やっているときは大変とは思わず,生活と密着した分野で生きた勉強が出来て,とにかく楽しかったです。

大学院ではどのような勉強をされたんですか。

斉藤さん 福祉関連が中心でしたが,福祉は法律とも関わりがあり,ゼミの論文は有名な『朝日訴訟』でした。その時,原告の請求を認めた一審の裁判官の丁寧な判決文を読んで,すごく人間的な感覚を持った裁判官がいるんだと分かり,裁判官のイメージが変わりました。大学院の修士論文では,母親の胎内で被爆し『原爆小頭症』という障害を負った方と家族の会『きのこの会』との出会いをまとめました。

大学院卒業後,著書『きのこ雲の下から,明日へ』を出版されましたが,どのような思いを込められたのですか。

斉藤さん 『きのこの会』の方たちと出会い,大変な状況の中でも,一生懸命生きている家族の方々の記録を残したいと思い,執筆しました。『明日へ』の意味は,同じ思いをする人を生ませない,2度と繰り返させないという核廃絶への思いとともに,医師からは20歳まで生きられないと言われ,希望が見えない気がするけれど,一生懸命に60歳を超えても生きている,人間の強さ・可能性を教えてくれた人たちなので,その方たちへの思いを込めました。

ちょうど数日前,核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会で,核兵器の不使用を主張した共同声明への署名を日本政府が拒否したというニュースがありましたね。

斉藤さん 被爆者の人たちの話を聴いてきて,どんな理由があっても核兵器は反対です。ニュースを聴いたときは,「日本がやらなくてどうするの?」という思いで,非常に残念でした。

被爆者の方との出会いは,その後の女優としての活動にも影響していますか。

斉藤さん 被爆のテーマに限らず,様々な作品に出演していますが,やはり,被爆者の役がくると,たくさんの被爆者の方の思いが生きる気がして嬉しいです。現在撮影中の映画は,『アオギリにたくして』という被爆者の女性をモデルにした作品で,今年夏頃に公開予定ですが,台詞が本当に被爆者の方が言っていたことであったりするので,今まで私がお話を聴いてきた方々が,役の中で生きている気がして嬉しいです。

「わたしと司法」の2012年7月号のインタビューに出てくださった,風見しんごさんも出演されている作品ですね!最後に弁護士に求めることを教えて下さい。

斉藤さん 先ほどの『朝日訴訟』などでも,人間味のある温かい弁護士さん達と出会い,知識は良い方向に使えば社会を良く変えられると思いました。若い方たちにもぜひ頑張って欲しいです。

本日はありがとうございました。

PAGE TOP