関東弁護士会連合会は,関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

写真

フリーアナウンサー
田中 大貴さん

とき
平成30年11月7日
ところ
渋谷区某所
インタビュアー
会報広報委員会委員 西岡毅

今回の「関弁連がゆく」は,元フジテレビアナウンサーで,現在はフリーアナウンサーの田中大貴さんです。
田中さんは,フジテレビの「情報プレゼンター とくダネ!」に,長年に渡ってフジテレビの朝の顔として出演されていましたので,田中さんのお顔を見ると,朝の清々しい気持ちを思い出される方も多いのではないでしょうか。
今回は,そんな田中さんに,幼少期からアナウンサーまで,また,生放送の魅力,大変さ等について伺ってまいりました。

まずは田中さんの幼少期のご様子を教えてください。

田中さん 小学校低学年ぐらいまでは,ナイーブで恥ずかしがり屋と言われていましたが,小学校高学年になると,自分を出せるようになっていました。小学校4年生から野球と陸上競技を始めて,この2つを勉強しながらちゃんとできたことで自信を持つようになったからかもしれません。うちの家族は,先生一家でしたので,勉強はとにかくしっかりやりなさいと言われながら,中学校でも野球と陸上を両方やっていました。

当時,野球と陸上の二足のわらじというのは珍しいですね。

田中さん 両方やれば両方に活きると思っていましたので。勉学も含めて,たくさん軸を持っていた方が相乗効果になってよいという考えは,小学校高学年ぐらいからずっとありました。

子どもの頃から,今のように身長が高かったんですか(現在186㎝だそうです)。

田中さん 小学校6年生の時は真ん中より少し大きいぐらいでしたが,中学生で身長が23センチも伸びて,クラスでも1番後ろの方になりましたね。

その後,高校でも野球を続けたのですか。

田中さん はい。高校は地元の兵庫県で有数の進学校だった公立高校に行ったんですが,自分の美学として,選手が寄せ集められた強豪の私学が甲子園に出るよりも,地元の公立高校で勉強もしながら甲子園に出るというのがかっこいい形だと思っていました。それで,地元の友達みんなで公立の進学校に行って,強豪校を倒して,甲子園に行こうじゃないかと目論んでいました。

実際にはどうでしたか。

田中さん 強豪私学と肩を並べて優勝候補にラインナップされるくらいの強いチームにはなりましたが,ただ,あと一歩というところで,なかなかそれ以上は行けないという壁を感じながらやっていました。自分達の中では,そこまで行けたという満足感もあったりして,今考えると,甲子園よりも,大学進学の方が価値が高かったのかなと思います。

その後は慶應義塾大学でも野球部に入られたんですよね。

田中さん はい,野球部に入って4年間寮生活を送りましたが,振り返るとよくやったなと思いますね。

遊びたい時期ですよね。

田中さん 当時は,早慶戦に出ること,東京六大学で活躍すること,そしてプロ野球選手になることが目標だったので,外で遊びたいとかも考えなかったです。

寮では共同生活で,色々と大変だったんではないですか。

田中さん 慶應の寮は変わっていて,下手な人ほど一人部屋で,上手くなればなるほど同室になる人数が増えていくんです。1軍になると,3~5人部屋になって,集団生活がより色濃くなるんです。早稲田は逆で,上手くなると1人部屋になっていくようですが。

その対比は興味深いですね(笑)。大学時代は野球漬けの生活でしたか。

田中さん 授業はしっかり出なければいけなかったので,授業に出るか,寮で野球の練習をするかのどちらかという生活でした。当時はそれがストイックだとは思わなくて,当たり前だと思っていました。

その後,プロ野球選手ではなく,フジテレビのアナウンサーという職業を選択されたきっかけはなんですか。

田中さん 高校3年生の冬に肩の手術をしたので,大学1,2年生のときはあまり野球ができなかったんです。大学3年生で試合に出始めた頃に就職活動の時期になって,当時の監督には,「社会人かプロで野球選手になるということを目標にしなさい。就職活動はしなくていい」と言われたんです。でも,一応世間を知るために就職活動をすることにして,大学3年生の12月終わり頃に,友達20人くらいでフジテレビのアナウンス部を受けに行ったんです。当時だと,広末涼子さんとか竹内結子さんとか優香さんに会えるんじゃないかなと(笑)。みんなリクルートスーツではなく慶應の学ランを着て行きました。そして気が付けば,僕だけ最終選考まで残っていた,というのが元々のきっかけです。あまり自慢できる話ではありませんね(笑)。

就職活動にあたって,アナウンサーとしての練習はしたのですか。

田中さん 全くしていないですね。野球部の発声だし,関西弁だし,一切ノウハウも知らないで行きました。僕がアナウンサーになろうと思ってないことは,フジテレビ側も分かっていたと思います。でも,フジテレビからは,「野球を続けるのであれば続けてください。もし続けないのであれば他の民間企業や他のキー局に行くことはやめて,うちに来てください」というようなお話をいただきました。

結局はアナウンサーを選ばれたんですね。

田中さん 僕の世代は,「松坂世代」と言われていて,同級生たちが何十人もプロ野球選手になった代でした。その世代では,「たとえプロの選手になれても活躍できないだろうな,このレベルでは」とすごく分かるんですよね。それで,先輩の高橋由伸さん(* 読売ジャイアンツ前監督)に相談したときに,「今この瞬間にプロ野球の世界でレギュラーで活躍している姿をイメージできるなら行けばいいし,イメージできないのであればもう辞めた方がいい。俺でも苦労しているから」と言われ,「分かりました」と。

当時は厳しいお言葉としてお聞きになったのではないですか。

田中さん 嘘はつかない人なので,「その通りだな」と納得しました。あとは幸いにも,野球選手と近い場所で伝える側の仕事を選択できるのも縁だと思って,22歳になる時にアナウンサーになる決断をしました。

アナウンサーとしてのお仕事は大変でしたか。

田中さん フジテレビに入ってからは苦労しました。10何年も野球をやっていたので,夏にスーツを着て屋内にいる自分を理解できなくて,ましてや野球場に行くと同級生が活躍して何万人の大歓声を浴びているわけです。自分は取材する側で,お立ち台でヒーローインタビューすると,台の上に同級生がいるわけですよ。この感覚を飲み込むのに数年かかりました。最初の頃は,辞めて野球に戻りたいと思っていましたね。

最初から主にスポーツを担当されていたのですか。

田中さん 最初は全然違いました。野球中継とかスポーツ中継とかスポーツ番組のMCやキャスターをやりたいと思って入ったんですけど,局からは朝と昼の情報番組をやれと言われて,なかなか馴染めなくて時間がかかりましたね。でも,入社3年目ぐらいのときに,「情報プレゼンター とくダネ!」という番組に出会って,そこでメインMCの小倉智昭さんから,「野球の組織と番組を作る組織は一緒だ」と言われて目が覚めました。小倉さんに,「野球は,監督とかコーチとか選手がいて,準備をしてくれているレギュラー外の人間がいて,勝負して得点が出て,という組織でしょ。テレビ番組も一緒で,番組を下支えしてくれているADさんやディレクターさんがいて,プロデューサーがいて,最後に勝負する出演者がいる。そして,次の日に視聴率という得点が出る。その組織の三角形と野球の三角形は同じだから,うまく転用して考えてみてごらん」と言われて,腑に落ちたんですよ。そこから考え方が変わってアナウンサーって面白いなと思いましたね。

田中さんから小倉さんに相談されたのですか。

田中さん こちらから相談はしていないんですが,小倉さんが感じ取ってくれたんだと思います。

当時は,毎日,生放送に出演されていましたが,台本はあるんですか。

田中さん 一応ありますが,生放送は,いつ何時何が起こるか分からないので,台本はないものと思ってやるしかないです。常に一発勝負という世界です。

大変な世界ですね。

田中さん はい,でも,そういう苦労は自分の養分になると思っていましたので。あと,生放送の刺激に慣れると,生放送しかできなくなるという感覚があります。というのも,生放送出演中は,常に自分の最大瞬間風速で臨んでいるんで,もう1回その自分を作れるかというと無理なんですよね。それで,常に全力という状況に慣れてしまうと,撮り直しが可能な収録番組では,自分の力の出し加減が分からなくなってしまうんです(笑)。

生放送での失敗談はありますか。

田中さん いっぱいあるんですけど,例えば,生放送の冒頭のロケに移動が間に合わなかったことがあります。たしかエレベーターが遅かったとかで,オンエアが始まったときに画面に誰もいなくて,空絵という状況になってしまいました。でも,マイクだけ付けて貰ってたんで,移動中ずっとしゃべりながら3分つないで現場にたどり着いたということがありました。

ヒヤリハットのシーンも多いんでしょうね。

田中さん 例えば,新潟中越地震のときは,道路が寸断されていて,歩いて山を3つぐらい越えていったところから中継することになっていたんですけど,22時からの生放送に辿り着かなきゃいけないので,必死にみんなで歩いて,ひげボーボーでメイクもできなくて,最後は田んぼの中を走って,山道も走って,ちょうど中継が来るタイミングでなんとか現場に辿り着いたということがありました。ぎりぎり間に合ったんですけど,打ち合わせや音声チェックはできていない,何を話すかも決まってない,そういう状況の中で,災害現場から10分ぐらい中継したりということもありました。普段からいかに準備して蓄えておくかがすごく大事です。

スポーツ中継などで感動して泣いたというようなことはありますか。

田中さん 基本的に,僕はオンエア上は泣かないようにしています。視聴者の方にその臨場感を100%ダイレクトに感じてもらうのが一番いい放送だと思っているので,僕らのフィルターを通して100%に近づくような伝え方をしなければならないんですが,そこに僕らの感情が入ってくると冷める人もいると思いますし,伝わりづらいこともあると思います。自分達が何を感じるかよりも,最終的に視聴者が何を感じるかが一番大事なんだと思います。

フリーになろうと決断なさった経緯を教えてください。

田中さん 1つは,フジテレビで自分が目標としていたものは15年間である程度クリアできたと思い,もう1周さらにクオリティを上げて同じことをやるのかと考えた時に,自分のスキルとか経験則とかをテレビ以外で活かしたいなという気持ちが強くなってきたんですよね。

テレビ以外と言いますと?

田中さん テレビって,集めた素材が100%あるとして,そのうち3%くらいしか出ないんです。残りの97%は大切に自分の胸に仕舞い込んでおかなきゃいけない。でも,例えば,大谷翔平という人間の貴重な1時間を貰えたのであれば,その1時間のうちの3%だけをテレビで放送するのではなくて,同時に雑誌,新聞,Webにも掲載して,その1時間を何個にも分けて発信してあげることが選手のプレゼンスを上げる事だと思ったんです。僕がテレビで時間を独占するのではなくて,他の媒体の記事も僕が書いて伝えられればいい。自分が会社を辞めれば,全方位で色んな媒体に出していくことができるので,自分はハブ的な存在になればいいと考えて,会社を辞めて独立することにしました。

大きな決断ですね。

田中さん 独立にあたっては,一番最初に小倉さんに相談に行きました。小倉さんは,独立してからも野球中継の現場にわざわざ見に来てくれたりして,東京のお父さんのように思っています。

これからの目標はありますか。

田中さん これまでやってきた仕事の延長線上で,自分を通して,周りの人達が世間的に評価があがるような仕事ができるといいなと思っています。

例えば目先を変えて,俳優業とか,ほかの職業をやってみることは考えてないですか。

田中さん 先日,ニュースキャスター役でドラマに出演しました。大変でしたが,お話をいただけるのであればやるべきだなと思いました。必要としてくれる方たちがいるなら,そこに行くのが僕のポリシーなので,出来るがどうかは別としてトライはするんだろうなと思います。自分の中では「初」というフレーズがとても大事で,例えば,慶應の野球部からフジテレビのアナウンサーになったこと,フジテレビから男性アナウンサーが30代で独立したこと,オスカー(現在の所属事務所)に男性アナウンサーが入ったこと等,全部が「初」です。「初」ということにこそ自分の価値があると思います。それが無謀なのか打算的なのかは別として(笑)。

最後の質問ですが,弁護士に期待されることはありますか。

田中さん 日本も欧米のような社会・環境になっていくとすれば,弁護士さんの活躍する場所はもっと増えて,近所に,当たり前のように電話して相談できるような役割になっていくんじゃないかなと思います。もっと身近な存在で,もっと味方になってくれる人たちなんですよ,という方向に向かって欲しいです。

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