関東弁護士会連合会は,関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

写真

平昌オリンピック金メダリスト,日本スケート連盟ナショナルチームアシスタントコーチ,富士急行スケート部コーチ
菊池 彩花さん

とき
2021年8月27日(金)
ところ
リモートインタビュー
インタビュアー
会報広報委員会委員 山浦能央

今回の「関弁連がゆく」は,2018年平昌(ピョンチャン)オリンピック,スピードスケート女子団体パシュートの金メダリスト,菊池彩花さんです。団体パシュートはスピードスケートに導入された初めての団体種目で,1チーム4人で構成され,うち3人で競技が行われます。レースでは3人で隊列を作り,最後尾の選手がゴールした時のタイムを競いますが,隊列を組むことによって空気抵抗による体力の消耗を分散することができるため,1人の場合よりも速いタイムで滑ることが可能となり,空気抵抗を減らすための戦略やチームワークが勝敗のカギを握ります。
菊池さんは,平昌オリンピックの1年半前に右足に大怪我を負われましたが,奇跡的な回復を遂げて,高木美帆さん,高木菜那さん,佐藤綾乃さんとともに平昌オリンピックの女子団体パシュートに出場され,卓越した技術とチームワークで見事金メダルを獲得されました。オリンピック後は現役を引退され,現在,日本スケート連盟と所属されている富士急行スケート部でコーチとしてもご活躍されています。今回のインタビューでは苦難を乗り越えて臨まれた平昌オリンピックのお話などスケートにまつわる様々なお話を伺いました。

スケートを始められたきっかけを教えてください。

菊池さん 長野県の南相木村で生まれ育ったんですが,実家の近くに湖があって,その湖で昔は滑っていました。始めた時期ははっきりとは覚えていませんが,歩けるようになって3歳くらいから始めていたと思います。

南相木村は人口千人余りで中学校もない小さな村ですが,その村から5人姉妹のうち菊池さんを含めて4人もオリンピックに出場(彩花さんは次女。妹3人はショートトラックの選手でオリンピック出場経験がある)されたのは本当に凄いことですね。

菊池さん スケートは村のみんなが取り組んでいた身近なスポーツでしたが,私の場合は先に姉がスケートをやっていてその影響もありましたし,祖父がスケートを教えていたり,母も高校までスケートをやっていて小学生を教えていたりしていましたので,そういう家庭環境の影響が大きかったと思います。遊びの一環からスケートを始めて自然に競技に移っていったという感じですね。

菊池さんが小学4年生だった1998年に長野オリンピックが開催されていますが,地元で開催されたオリンピックはいかがでしたか。

菊池さん スピードスケート自体は直接会場で観ることはできなかったんですけど,清水宏保さんや岡崎朋美さんがメダルをとったシーンはとても鮮明に覚えています。長野オリンピックがきっかけで私も選手としてオリンピックの舞台に立ってみたいと思いました。

高校はスピードスケートの強豪,佐久長聖高等学校に進学されています。当時の逸話として南相木村から高校までの往復80kmをトレーニングのために自転車で通学されていたと伺ったんですが,どうしてそんなに苛酷なトレーニングを始められたんですか。

菊池さん 高校では授業の後,1時間半くらいしか部活動の時間がなくて中々トレーニングの時間が取れなかったんです。高校にはバスや電車を乗り継いで片道1時間半以上かけて通学していたんですが,その時間にトレーニング出来ないのが勿体ないと思ったんです。それで自転車で通学すればトレーニングになるんじゃないかという軽い気持から始めました。

往復80kmというと車で通うのも大変な距離だと思いますが,よく続けられましたね。

菊池さん 帰りは街灯も少ない真っ暗な中,登り坂を2時間以上かけて帰っていました。誰もそんなことはやっていないと,親からも顧問の先生からも反対されましたね。でもやってみなければ分からないですし,反対されればされるほど,反骨心というか,絶対やり遂げようという気持ちが強くなったんです。それで大変でしたけど自転車通学を続けました。

2006年に高校卒業後,富士急行スケート部(橋本聖子さんや岡崎朋美さん等の有名選手を多数輩出している名門チーム)に入られて実業団という厳しい世界での競技生活が始まりました。ご苦労はありましたか。

菊池さん 中々結果が出なくて初めてワールドカップに出場できたのは23歳の時なんです。それまであと1歩のところで出場を逃していて,その壁を越えられない時期が5年間ほどありました。富士急行で世界のトップクラスで戦っている先輩たちと一緒に日々トレーニングする中で,自分と先輩たちとの格差みたいなものをまざまざと感じていましたので精神的に辛い時期だったと思います。その中でも諦めずに続けてきて本当に良かったと思います。

努力が実って2014年ソチオリンピックに出場されましたが,初めてのオリンピックはいかがでしたか。

菊池さん 長野オリンピックを見て,その舞台に憧れて,いろんな苦労があった中で出場することができたので凄く嬉しかったです。でもオリンピックに出場すること自体をずっと目標にしていたので,いざその大舞台に立ったときにパフォーマンスを発揮することができなかったんです。アスリートから「楽しめました」という言葉を聞くことが最近多いですけど,そういった気持ちには一切なれずに,ただ悔しかったです。実は悔しさのあまりソチのことはあまり覚えていなくて,結構記憶の抜けているところがあるくらいなんです。

ソチオリンピックでは菊池さんだけではなく日本のスピードスケート界全体が不調でメダルが全く獲れませんでした。その後,強化のためにナショナルチームが結成され,オランダ人のヨハン・デ・ヴィットコーチが就任して,年間300日以上にもわたってトレーニングを積まれたそうですが,トレーニングは大変でしたか。

菊池さん 勿論きつかったですが,それまでの練習ときつさの質が違うように感じました。ヨハンコーチが来てからは,休む時は休む,やるときはやるというようにトレーニングの強弱があって,やるべき時のパフォーマンスをしっかり上げながらトレーニングしていくという積み重ねができたと思います。それまではきついトレーニングばかりでしたので疲労がずっとたまっていて精神的にも辛かったんですね。でもヨハンコーチの場合は,データや科学的な分析を踏まえたトレーニングだったので強化の目的が明確でしたし,納得しながらトレーニングができていました。ですのでヨハンコーチのトレーニングは同じ辛さでも精神的にも体力的にもギリギリ頑張れてしまうメニュー構成と,年間を通してのトレーニング計画だったと感じました。

疲労のことなんですが,レースの後,選手が動けずに座り込んでいる映像を見たことがあります。それだけレース後の疲労は凄いんですか。

菊池さん 団体パシュートは3人いて,引っ張って貰ってついていくので,自分の能力以上のものを出してしまうというか,出し切れてしまうんですね。なのでレース後は,乳酸が物凄く出ていて,本当に手足も痺れて,ただただ痛いというような状況になりますので,いいレースができたときはしばらく立ち上がることもできなくなりますね。

ナショナルチームに選ばれてトレーニングを積まれていた中,2016年8月の練習中に右足の腱と神経を断裂する大怪我を負われました。どういうお気持ちでしたか。

菊池さん 凄い大怪我でリンクにも血だまりができているような状況でしたので,本当に選手生命が危ないんだなと呆然とした気持ちもあったんですが,でもなぜかほっとしたという不思議な気持ちもあったんです。というのも精神的にも辛い状況に追い込まれている中で,チームから離れて自分自身を見つめる時間ができたからだと思うんです。ヨハンコーチが来て1年目,2年目は新しいことをやって,やればやるだけ結果がでていたんです。でも,2年目の途中からやればやるだけ結果が出るんじゃなくて,他の選手たちとの上手くいかない部分や自分の中で心と体のずれのようなものが生じていたのですが,それをじっくり考える時間になりました。だからある意味ほっとしたのかもしれないですね。

平昌オリンピックが一年半後に迫っている時期に大怪我をされて,そこからオリンピックを目指そうと思った原動力は何だったんでしょうか。

菊池さん パシュートで金メダルを獲るという目標は,自分だけじゃなくて支えてくれている人みんなの夢みたいなところがあったので自分がこれで諦めていいのかなって思ったんです。あとソチを経験して自分があの舞台でもう一回リベンジすると誓った4年前のことを考えると,今ここで諦めるのは簡単だけどそれで本当にいいのかなとも思いました。出来るかどうかは分からないけど,やれることだけやってみようと覚悟を決めて平昌オリンピックに挑戦しようと思いました。

団体パシュートは空気抵抗を減らすために選手同士の間隔が数十センチしかありませんし,時速約50kmという凄いスピードで滑りますので僅かなミスが大事故に繋がる非常に危険な競技だと思います。実際に大怪我を経験されて競技に戻る恐怖感はありませんでしたか。

菊池さん それが意外となかったんですね。というのも怪我をする前まではとにかく力で前に進もうとしていたんですが,力を入れるとバランスも崩れますし,体力の消耗が早くて効率の悪いスケーティングをしていたんです。でも怪我で自分自身を見つめ直す機会ができて,効率のいい体の使い方や動き方が出来ていないことに気付いたので,そこを直すために基本的なスケートのトレーニングや体の動かし方を徹底的に練習したら,氷に戻った時にも安定感が凄く増したんです。なので怖さは意外となくて,それよりは意外と滑れているっていう感覚の方が強かったですね。怪我の前より体重が減って体力も筋力も圧倒的に少なかったんですが,それでも感覚は凄く良かったんです。

大変な困難を乗り越えて平昌オリンピックへの出場が決まった時はどのようなお気持ちでしたか。

菊池さん あれだけの怪我をしてオリンピックに間に合うかどうか不安なところもありました。実はオリンピックが終わってからコーチや手術をしていただいた先生からも「オリンピック出場は無理だと思っていた」と言われたくらいです。間に合わないかもしれないけど,もう本当にやれることをやろうって思って一つ一つ目の前のことに集中して,本気で取り組んでいたら,結果として平昌オリンピックに出場できたんです。本当に奇跡的だと思いましたし,平昌オリンピックまでの最後の1年は凄く不思議な感覚でした。

ソチオリンピックの時とは違った思いというのはありましたか。

菊池さん 全然違いましたね。ソチの時は周りのために頑張りたいっていう気持ちが強かったんですが,結果的には自分のためにしか頑張っていなかったんですよ。でも平昌の時は怪我も経験して,色んなことを乗り越えてきて,周りのために自分が頑張るんじゃなくて,自分がしっかりと自分自身を強くして頑張ることで周りの人たちにも結果的に喜んで貰えるんだという風に考え方が変わりましたね。

平昌オリンピックの団体パシュートで菊池さんは準決勝のカナダ戦に出場されました。どういう気持ちで臨まれたんですか。

菊池さん ソチの時も同じく準決勝に出て,最後は補欠で見守るという形だったんですけど、ソチの時は自分が滑りたいという気持ちが強くて悔しいという気持ちしかなかったんです。でも平昌ではチームのために何ができるのかということを一番に考えて,自分のできること,自分の役割をしっかりと果たそうと思いました。準決勝の自分の役割としては,カナダという強豪とのレースにしっかりと勝ちながら,2時間後の決勝でベストなパフォーマンスをしてもらうために,自分の大きい体を生かして後ろの選手たちの体力をできるだけ温存させてあげることだったので,そのあたりを一番に考えてレースに臨みました。

菊池さんの準決勝の滑りやチームへの貢献は本当に素晴らしかったと専門家の方も高く評価されていました。2時間後のオランダとの決勝はリンクの中でご覧になっていたと思うんですが,出場された準決勝とどちらが緊張しましたか。

菊池さん 見ている決勝の方が緊張しましたね。出ている時は自分のやるべきことに集中しているので,あまり緊張感はなかったんですけど,決勝では応援することしか出来なくて祈るような気持ちで見ていました。

準決勝で体力を温存できたこともあって日本チームは決勝で王者オランダを破り,見事金メダルを獲得されました。どのようなお気持ちでしたか。

菊池さん 本当に嬉しかったですね。会場ではみんなが立ち上がって喜んでくれていましたし,日の丸が揺れていて,会場の雰囲気は言葉に表せないような素晴らしいものでした。あの光景は忘れられないですね。

金メダルを獲得された後のインタビューで,高木美帆さん,高木菜那さん,佐藤綾乃さん,菊池さんの4人全員が「チーム全員で勝ち取った」と,チームに感謝の言葉を述べていたのが非常に印象に残りました。

菊池さん あの年はメンバー同士のリスペクトが凄くあったというのを感じていました。やはりスピードスケートは個人競技ですし,ライバル関係でもあるので,チームとして纏まること自体が凄く難しいところもあるんですね。ただあの年に関しては目標が明確でしたし,勝つためにどうしたらいいのかを,みんな相手の意見を尊重して,リスペクトしながら意見交換もしましたし,お互いを鼓舞しながらナショナルチームとして年間のほとんどを一緒に過ごしていました。そういった経験の全てが繋がってああいう言葉になったのかなと思います。

平昌オリンピック後は現役を引退してコーチに就任されていますが,選手時代と違った難しさはありますか。

菊池さん コーチになった直後は,どう教えたらいいのか分からなくて自分の感覚とか経験の中から伝えることしかできなかったんです。今は4年目になるんですがコーチ資格を取ったり色々な勉強をしたりする中で,自分の感覚だけで伝えるのは限界があるので科学的な根拠やデータを用いながら,選手が主体的に考えることが出来るような指導になるように心掛けています。

コロナ禍でコーチをすることのご苦労はいかがでしたか。

菊池さん ナショナルチームのことで言えば,外国人のコーチが日本に入国できない時期がありました。コーチに直接トレーニングを見てもらえない時期があったので選手が一番影響を受けたと思います。トレーニング施設もいつも使えるところが使えなかったり,公共の施設が全て閉まっていたりしましたので,どういう風にトレーニングをしていくか大変でしたね。環境に恵まれていた時には見えなかったことが分かって,何が大切なのかということにも気づかされました。

来年2月に北京オリンピックが開催予定ですが見所を教えてください。

菊池さん コロナ禍で昨年は国際大会に日本チームを派遣しなかったんですが,選手は難しい状況の中でもモチベーションを保ってトレーニングを積んで国内最高記録を出したり,それぞれが自己ベストを更新したりして結果も出ています。平昌の時は女子選手が目立っていたと思うんですけど最近は男子選手の活躍も目覚ましいので男子短距離も面白いと思います。中距離,長距離,団体パシュートもメダルを獲れる位置に来ていますので,どの種目も見ている方は楽しめるんじゃないかと思っています。

ご活躍をとても楽しみにしております。本日はお忙しいところ本当に貴重なお話をありがとうございました。

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