関東弁護士会連合会は、関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

野球評論家
上田利治さん

とき
平成14年6月12日(水)
ところ
都市センターホテル「梅林」
インタビュアー
鈴木周 会報広報委員会部会長

 今回の「わたし」はもとプロ野球監督で,現在は野球評論家の上田利治さんです。上田さんは,昭和12年徳島県生れ,徳島海南高校から関西大学に進み,あの村山実とバッテリーを組み,2年生の時に全国制覇を成し遂げています。
 大学卒業後は広島東洋カープに入団し,故障もあって3年で引退したのですが,異例の抜擢で打撃コーチに就任しました。その後は,優れた野球理論を買われ,昭和46年に阪急のコーチ,同49年からは監督,そして50年から3年連続日本一の黄金時代を築きました。
 その後も,リーグ優勝を2回達成し,平成7年から5年間は日本ハムの監督も務められました。これまでの監督しての通算勝数は1321で,鶴岡,三原,藤本,水原,西本に続く歴代6位です。もしかしたら,もう一度監督に就任して,トップ3に食いこんだりすることもあるかもしれません。

上田監督はじめまして。私はちょうど阪急の黄金期に一生懸命応援していたので,今でも思わず「監督」と呼んでしまいますけど,監督ご自身もこれだけ長く監督をやっておられると,物心ついた頃から監督やってたような気になりませんか?

上田さん あはは,そんなことないですよ。監督になったのは37の時ですし,それまでは12年間コーチをやってましたから。

関西大学では村山実さんとバッテリーを組んでおられたんですよね。大学では,ずっと野球ばかりしておられたのですか。

上田さん 私は,大学は一般の受験で入ったのです。実は私の叔父が徳島の弁護会の副会長だったので,私自身も法曹を目指したいという気持ちがあり,それで当時は野球が盛んで司法試験の実績のある大学は関東なら中央,関西なら関西大学でしたので,「それなら関西大学に入ろう」と思って入ったのです。 実際は,野球部に入って練習が大変だったこともあって,司法試験どころではなかったのですが。

いや,まだ遅くないですよ。関西大ならきっと法科大学院つくると思いますよ(笑)。それで,大学卒業後はドラフトで広島に入団されたのですか。

上田さん いや,当時はドラフトなんてなくて,各球団が好きに交渉していたのです。で,私は,プロでやっていけるかどうか,ちょっと自信がなくて,社会人を考えていたものですから東洋工業に就職したいと希望していたのです。
 ところが,当時は各企業がプロ野球団に選手を出向させるという制度があって,東洋工業が「上田君,給与は保証するから3~4年位カープに出向してみろ。だめだったら会社に帰ってくればいいじゃないか。」と言ってくれたので,広島で野球をすることを決めたのです。

現役時代は,実働3年間で打率218,ホームラン2,打点17,盗塁5。この盗塁ってすごいですね。初年度は4つも決めてます。上田監督が盗塁なんて,とても想像つかないですよね。俊足捕手だったんですか。

上田さん いや,足は遅かったですよ。だから盗塁は足で走るんじゃないんですよ。隙を見てタイミングで勝負するんですよ(笑)。結局,肩を壊したこともあって,3年で引退したんですけどね。

それで,すぐコーチになられたわけですが,25歳でコーチ就任ってすごく珍しいことではないですか。

上田さん そうですね。私も,すっかり東洋工業に戻る気でいたんですが,広島から「君は選手としてだけではなく,後進の育成の意味もあって取ったんだ。」と言って頂いて,東洋工業の松田社長からも「これからは,人を育てる時代だから,上田君はカープで人を育てて強いチームを作ってくれ。」と言って頂いて,決心がついたのです。
 当時から,デーブ・カーネギーの「人を動かす法」など読んでいましたから,人を育てるということに興味もあったのです。

その後は,西本阪急にコーチで入り,49年からは監督になられてますよね。日本シリーズで山田久志が王貞治にホームラン打たれて負けた年ですね。

上田さん そうそう。あのときは,前打者の長島さんのときに,ショートのポジションを直すのを怠ってしまったのでヒットが出たんですよ。それで,ランナーが出て山田がセットポジションに変わったので,ワンちゃんとタイミングがあって打たれたんですよ。あれが,ワインドアップだったらワンちゃんも打てなかったと思いますよ。きちんとポジションをチェックしておけばこんなことにならなかったと後悔していますよ。それにしてもすごいホームランだった。打ったときにはもう入ってるって感じでしたね。

そして,上田監督と言えばやはり,昭和53年シリーズ第7戦,ヤクルト大杉疑惑のホームランですよね。

上田さん いや,それよりもね,あのシリーズは自分の決断ミスで第4戦を落としたのが大きかったんですよ。あのときは,2勝1敗で勝ち越してて,今井雄太郎が9回2アウトランナーなしまで頑張って,最後のバッター伊勢孝夫がサードゴロ打ったんですよ。普通なら,これで3勝1敗,シリーズは決まりですよ。そしたら,当時西宮球場は競輪場と併設だったから,ちょうど競輪のポールの埋まってた堅いところで跳ねてヒットになってね。それでブルペンに連絡したら「山田が絶好調ですよ」って言うんです。5対4で一点差,ランナーは一人,バッターはなんでも振りにくる外人のヒルトン。100%ピッチャー交代の場面ですよ。それでマウンドに,「ご苦労さん。山田に帰るからな。」ってねぎらいに行ったら,キャッチャーの中沢君や内野手がみんな「監督,雄ちゃんまだ行けますよ。あと一人じゃないですか。僕たちも守りますから替えないで下さい。」って口々に言うんですよ。雄ちゃんも「監督,投げさせて下さい。」って言うんですよ。それまでそんなこと一度も言ったことなかった男ですよ。それで,僕も替えると言い出せなくて,「フォアボールでいいんだぞ。」と言ってベンチに帰ったら,ヒルトンに2ランホームラン打たれちゃった。あれは,本当に今でも悔やみきれないですよ。一番大事な場面で情に動かされてしまったんです。

そうだったんですか。全然知らなかったです。我々ファンは,結果しか見えないわけですから,あの7戦こそが全てだと思ってました。

上田さん いや,あれも悔しいですよ。今でも,あれはポールの外側を通ったホームランだと思ってますよ(笑)。

そうですよね。球場の3万人の中で,ホームランって言ってたのレフトの線審だけでしたよね(笑)。手ぐるぐる回しちゃって。

上田さん でも,あの第4戦の9回のことがなければ,山田で簡単に勝ってたんですから,伏線があったわけですよ。その第4戦のことは,6月18日に西宮球場でテレビのドキュメント番組の撮影があって,今井の雄ちゃんとかみんなで集まるんですよ。

それは楽しみです。是非拝見します。ところで,監督はいま野球評論家をされていますが,今後はまたどちらかのチームに行かれないのですか。

上田さん それも気力体力ともに充実しての話ですね。そうでないとチームにも申し訳ありませんし。でも,今でも毎日2~3時間位歩いてますよ。神田川から馬場,新宿を回って返って来たり。梅雨の時期に汗をかいておくと,夏場は調子いいですよ。

そうですか。僕は,監督が移った先のチームを絶対応援しますよ。期待してますから頑張ってください。今日はお忙しいところ有難うございました。

 このほかにも,伝説の速球王山口高志の話や,89年の西武・近鉄とのデッドヒートの話,人心掌握など監督業にまつわる話,現在のプロ野球界の問題点など,様々なお話をして頂きましたが,紙面の関係で割愛せざるを得ないのが残念です。弁護士業に共通するお話も多く,今後機会あれば是非弁護士会等でご講演して頂くことをお願いしてインタビューを終了しました。

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