関東弁護士会連合会は、関東甲信越の各県と静岡県にある13の弁護士会によって構成されている連合体です。

「関弁連がゆく」(「わたしと司法」改め)

従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが、このたび司法の枠にとらわれず、様々な分野で活躍される方の人となり、お考え等を伺うために、会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。

写真

作家・評論家
近藤信行さん

とき
平成21年6月10日
ところ
山梨県立文学館
インタビュアー
会報広報委員会委員長 東條正人

 今回の「わたし」は,近藤信行さんです。近藤さんは1931年生まれ,早稲田大学を卒業後,中央公論社の編集者として昭和を代表する作家とかかわり,自らも作家,評論家として活躍されている方です。

近藤先生は,中央公論や婦人公論の編集者をされていたんですね。編集者として記憶に残ることがありましたか。

近藤さん たとえば,志賀直哉さん。戦前に長編『暗夜行路』を完成されました。それで書き尽くされたとの感があるのか,戦後しばらくたつと「もう僕には書くものがないよ」とおっしゃるんです。先生には生活のなかでの遊び心,豊かな気持ちがあるのですね。「きのうは浅草に行ってきたよ」とおっしゃっていました。そこで先生が話されていることを私が口述筆記しました。下書きの原稿を先生のところに持って行ったら,先生が手を入れてくださいまして,奥さんが清書して,私に渡してくださいました。網野菊さんが女流文学賞をもらったとき,写真撮影に行きまして,グラビアにそえる文章をお願いしました。原稿をいただきにまいりましたら,僕の下書きがテレビの上においてある。それをもらってびっくりしました。志賀さんの文章は,接続詞やいらない形容詞をどんどん削るんですね。こういう形で志賀直哉の文章が作られるのかととても勉強になりました。推敲を尽くした無駄のない簡潔な文体なのです。
 井伏さん(鱒二)や川端さん(康成)も,締め切りぎりぎりまで推敲していました。そんなことから生まれ出るものを見たような気がいたします。いまみたいにFAXや電話がどこでも通じるわけじゃないしメールなんかない時代。僕らのころは足で歩く時代。編集者の顔見ないで書くというのはだめなんです。

昭和44年には文芸雑誌「海」が創刊され,近藤先生が編集長に着任されるわけですね。

近藤さん これまで文芸雑誌には短編が多かった。私としては,それまでなかったような長編をいかに生み出すかということを目指しました。それが,辻邦生さんの「背教者ユリアヌス」,武田泰淳さんの「富士」ということになるでしょうか。「背教者ユリアヌス」はローマ皇帝ユリアヌスの物語ですが,3年を超える連載になりました。「富士」のほうは,太平洋戦争末期の富士北麓の精神病院を舞台にした狂気と正常が主題。こちらのほうも2年近い連載となりました。双方引き込まれる作品です。

さて,先生は,ご自身でも作家や登山家として活動されていますね。自ら作家として活動されたり,山に魅入られた経緯はどのようなものだったのですか。

近藤さん 昭和21年7月,富士山に登ったのがきっかけです。頂上に登ったときはほっとしてね。そのとき一緒に登った仲間と近くの山を歩くようになって,昭和24年には中央線から北アルプス,南アルプスに入るようになりました。そんななかで山の中にいろいろなものがあるな,山の文学にいいものがあるなと思うようになったのです。
 山の本では,就職してから,日本山岳会(明治39年創設)の「山岳」という雑誌の戦前分のバックナンバーをボーナス全部はたいて買って勉強しました(女房にしかられました)。(笑)大島亮吉さんの『山 研究と随想』(昭和5年・岩波書店)という本もいい本でした。山の人の文章はいいなと思ったものです。「山岳」を読み進むうちに小島烏水に出会いました。

先生は「小島烏水-山の風流使者伝」(創文社)という本で大佛次郎賞を受賞されたわけですが,小島烏水さんという人はどういう人なのですか。

近藤さん その日本山岳会の初代会長をつとめた方。明治6年高松に生まれ,横浜正金銀行に入行しました。銀行は定年まで勤め,シアトル支店長なども歴任したのです。銀行勤務のかたわら,文筆をされ,また登山家としても知られていました。

烏水さんの魅力はどんなところになりますか。

近藤さん 旅から始まった方ですが,江戸期やもっと古い旅人を調べながら,街道筋をしっかり検分して,観察も細やかです。山岳紀行や山と自然に関するエッセイは本当に素晴らしい。山によって鍛えられた人という面があります。とにかく書くべき方だと思いました。

近藤先生は,冬山や海外遠征もされるのですか。

近藤さん はい。ちょっと前まで現役でしたが75歳すぎてから,こたえるようになりました。
 海外で思い出深いのは,取材もかねてですが,烏水が大正4年から昭和2年まで16年間西海岸にいたころ登ったというカスケードの山々に登ってきました。シェラネバダではアメリカ本土の最高峰のホイットニー山(4418メートル)にも登りました。
 また,1987年に,これは10人の隊で,新疆省のカラコルム山群にあるクラウン(7295メートル)という未踏峰に挑戦しました。ネパールには鍛えられたシェルパがいますが,こちらはいないので駱駝を100頭ほど雇ってベースキャンプまで荷物を運びました。クラウンは結局失敗しました。垂直の氷壁が上りきれませんでした。
 日本の山ではやはり穂高ですね。四季みんなすばらしい。涸沢から前穂,奥穂いろいろなルートがあるし,花もあり,雪渓もあるし,展望もいいし。涸沢に入ると落ち着きます。

弁護士は日ごろストレスの多い仕事ですが,お勧めの気晴らし術を教えてください。

近藤さん やはり,旅や散歩はお勧めですね,それも漫然と歩くのではなくて,人文学的考察をしてほしいですね。その町がどういうなりたちで作られてきたかとか,旅にまつわる自然や風景,これが大事ですね,いつの時でも人間を考えさせる,そして鍛えられる。老若男女問わずです。自分なりのテーマを持って歩くことです。

法律関係でなにか困ったことなどありますか。

近藤さん 私は風来のもので,法律関係はまったくの無知。後で後悔することが多い。困ったことがあってもみんな捨てちゃう。お金のことでくよくよしたこともありません。
 この前,足利事件がありましたが,17年間閉じ込められる。読んだとき,つらかったですね。一旦警察の中に入るとギューギューやられる。
 僕も小さな経験があるんです。昭和35,6年の安保騒動の頃,家に帰るのにタクシーに乗りました。そしたら運転手さんが後楽園の通りで道路標柱にぶっつけて倒してしまった。春日町の交番に出頭して,事情を説明するのにつき合わされていたんです。なかなか帰してくれなくて,担当の警察官に早く解放しろと抗議しているときに私の体が触ったんです。そしたら,「おまえ,公務執行妨害だ」というわけです。それでも解放されて,私は別のタクシーに乗って帰ろうとしたんですが,タクシー代を払うのを忘れていた。それで取り調べされていた交番に戻って,運転手さんにタクシー代を渡したのです。そしたら,「お前まだいたのか」と今度は近くの富坂署に連れて行かれて朝までです。1週間ほどしたらまた出て来いという通知が来て,困ってしまいました。そこで友人の法務省づめの記者に相談したら,彼曰く「そんなばかな」ということでその彼が一緒に行ってくれることになりました。署長さんが出てきたので「その警官に会ってちゃんと話をしたい」と言ったら,署長さんが平謝りでそれだけはご勘弁をと,帰してくれました。
 でも,いろいろ人間や組織を勉強することは大事だなあと。やはり法律は知らなくちゃいけないなあと思いました。

本日はどうもありがとうございました。

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